闘うことの悲しみ


志穂美さんの悲しげな表情:

志穂美さんの映画をよく知らない人は、志穂美さんの演じるキャラは闘いを好む女戦士タイプであると思っている場合が多いようです。「闘う妹:世界のアクション映画の系譜の中で」では、この点についても論じるつもりでしたが、紙幅の都合で果たせませんでした。このエッセイでは、この点について論じることにしましょう。まず、「闘う妹:世界のアクション映画の系譜の中で」の中の次の文章をもう一度繰り返すことから始めましょう。

女性が主人公のアクションものだと、女性の主人公は、悪役の男性を「私に勝てるかしら。」などと挑発したり、倒した後で「女だと思って甘く見ないで。」とか「男のくせにだらしがないわね。」というようなセリフを吐いて、誇らしげな表情をするのが普通です。ところが、志穂美さんの映画では、志穂美さんは敵に勝っても誇らしげな表情は全く見せないのです。それどころか、敵に勝った後で、闘うことが悲しいかのように、ひどく哀しげな表情をするのです。ついでに言えば、この哀しげな表情も志穂美さんの魅力の一つでした。

もっと言えば、志穂美さんは、いつも「闘うことが悲しくてしょうがない」という感じで闘っています。少なくとも、本当の憎むべき敵に対してはそうです。(ただ、『女必殺拳』のレストランでチンピラをこらしめるシーンなどでは、余裕を持って笑顔で闘ってますが。)つまり、志穂美さんが演じるヒロインの性格には、攻撃的・好戦的なところが無いのです。さらに、通常、闘いの原動力となる敵に対する憎しみも、志穂美さんからはそれほど感じることができません。「闘う妹:世界のアクション映画の系譜の中で」で触れた香港の女優と比較しても、志穂美さんの演じるヒロインは、好戦性や敵に対する憎しみがはるかに弱くなっています。例えば、シャンカン・リンホーが『女ドラゴン 血闘の館』で演じたキャラクターは、短気で、気が強く、極めて好戦的です。また、『地獄から来た女ドラゴン』でのジュディ・リーは、ラストで、兄を殺した悪徳ボスが兄を殺したのと同じように、悪徳ボスに三十数本の斧を打ち込んで殺し、自分も死んでしまいます。そのラストの斧を打ち込むシーンでは、兄を殺したボスに対する強い憎しみが感じられます。それに対して、志穂美さんの演じるヒロインはそういう感じを与えないのです。ここで、山根貞男編『女優志穂美悦子』(芳賀書店、1981年)の山根貞男・山田宏一両氏の対談から、また引用を行うことにしましょう。

山根--・・・・ぼくが映画の志穂美悦子を観ていて印象深いのは、アクションをするときの表情ですね。「女必殺拳・危機一髪」で悪漢をやっつけるときなんか、過剰防衛というべきで、向かやつの手なんか叩っ斬っちゃう。そんな描写は普通ならもっとどろどろ血だらけになるのに、彼女がやると本当に血だらけの感じがなくてね。そのときにね、志穂美悦子の顔は眉を寄せ唇をひきしめた表情になるんだけど、感情でいうと悲しさの表情なんだよね。

山田--なるほど。

山根--闘うときのアクションの表情を見ていると、いつも悲しさですね。憎しみや怒りじゃない。一応話しとしては復讐とか憎悪とかになっているけど。

--中略--

山根--むしろ、闘うのがとっても悲しい!という感じで闘ってる。

ブルース・リーの影響

このような悲しい表情には、ブルース・リーの影響が大きいことは確かです。ブルース・リーのアクション・シーンでの悲しげな表情は良く知られていますが、当時の映画の観客には極めて強い印象を与えました。闘いの際に悲しい表情を見せるというのは、日本やアメリカのアクション映画にはなかったからです。『映画秘宝 101匹ドラゴン大行進』によれば、ブルース・リーのあの表情を「アジアの悲しみ」といった映画評論家がいたそうです。つまり、長い間欧米に踏み付けにされてきたアジアの人の悲しみがあの表情に表現されていると言う訳です。私はこの見解には全く与しませんが、このようなこじつけと思える解釈が出てくるほど、当時の人々にとってブルース・リーの悲しい表情は印象的だったのです。『燃えよドラゴン』からはじまった空手映画ブームに乗って、東映で空手映画が作られるようになったときに、アクションのほかに強烈な印象を与えたブルース・リーの表情もコピーしようと関係者が考えた可能性はきわめて高いと思います。とくに『女必殺拳』は元々香港の女優のために企画で、しかも主人公は日本香港の混血という設定です。さらに言えば、『女必殺拳』の主人公李紅竜の名前さえ、ブルース・リー(李小龍)をもじったものなのですから。香港の空手映画の最大の成功例をコピーするのは良い戦略だと考えたのでしょう。

女性は闘わないもの:意外と古風な志穂美さんの男女観

しかし、志穂美さんのあの表情には、ブルース・リーの単なるコピーとは言えない面があるのです。それは、志穂美さん自身が、女性が闘うということをどのように考えていたかいたかということと関係があります。『女優志穂美悦子』(芳賀書店、1981年)での山根貞男氏が行った志穂美さんとのインタビューの一部を引用しましょう。

▲-----「女必殺拳」シリーズでもう一つ特徴的なのは、同じような復讐を男性が演じたら、もっと憎しみの情念とかが強く出るんだけれども、それが見られないことですね。

悦子--うん。

▲-----どろどろしてなくて、スカッとしている。

悦子---ほんとに
活劇なんですよね。

▲-----そのへんのことは意識しましたか?

悦子---あまり考えませんでしたけどね。やっちゃたのがああいうふうな結果になったという感じで・・・・。ただ、
女だしね、闘うことにすごい快感とか、残虐な闘いはしたくない、と。テーマはいつも悲しみなんだ、と。十八や九の女の子が叩いたり、殴ったり、蹴ったりすることは、すべて悲しみから来てる。復讐から来てるんだけれど、女の子がやるわけで、なぜ女が殴ったり蹴ったりしなくちゃいけないのか、その闘うことに対しての悲しみ、ですね。ブルース・リーが「燃えよドラゴン」でしたか、自分の妹を殺した男性を殺すときの顔なんか、怒りじゃなくて、もう悲しみの顔でしょ? わたしはいつも、闘うシーンは全部そういう悲しみの顔にしようと思っていました。殺陣師の人もそう言ってたし・・・・。

▲-----なるほど。その悲しみは良く出ていましたよ。

悦子---
ただそのなかに、スカッとする小気味よい立ち回りというか、それは絶対出したかったですね。で、エンディンングでボスを倒したあとに残ったのは、むなしさでしかない、と・・・・・。

▲-----痛快であると同時に悲しみのにじみ出た活劇、ですね。

悦子--
-女が闘うってことが悲しみじゃないですかねえ。

▲-----どうしてでしょうか?

悦子---うーん・・・・
女はふつう闘うもんじゃないですからね。闘うのは男だから。それなのに、なにゆえに、女がやらなくちゃいけないのか、というのはやっぱり悲しみで・・・・。

▲-----でも、まさにそういう役のできる女優になりたかったんでしょ?

悦子---闘うってことはべつにやりたくなかったですけどね。

▲-----アクション女優であれば、とうぜん闘うことになるでしょう。

悦子---そうですけどれどね・・・・わたし、空手映画というのは、そんなに特別に、というふうなものでもなかったんです。十四、五のときに憧れていたのは、とにかく危険なことをやりたかったんです。

▲-----危険なことっていうと?

悦子---ロープーウェーからぶらさがったりとか、そういう、・・・・ホントにあの子がやってるの? 替わりがやってるんじゃないか?・・・ホントに本人がやってるのか!というのがやりたかった。それでJACに入ったんです。

志穂美さんの中には、本来女性は闘うものではないという考えが強くあり、本来闘うべきではない女性が闘うことは悲しいことなのだという強い考えがあったのです。そのような考え方が元からあったため、悲しい感情がよく表現され、あの闘いのときの悲しげな顔を魅力的なものにしたのでしょう。さらに、志穂美さん自身のこのような考えが、演じるキャラクターに好戦的・攻撃的な性格が見受けられないことの理由の一つでもあると思われます。志穂美さんの闘いの際の悲しい顔は、志穂美さんの意外と古風な男女観の表われでもあったのです。


志穂美さんが本当にやりたかったアクション映画は?:"悲しげな顔をする必要が無いアクション映画"

ここで、疑問として出てくるのは、女性が本来闘うものではないと思っているのなら、なぜ志穂美さんがアクション女優となることを目指したのか、ということです。実は、志穂美さんは格闘シーンを演じたいとは、元々は思っていなかったのです。引用したインタビューからも分かる通り、志穂美さんは、格闘シーンよりは、ロープーウェーからぶら下るといういうような、スタントの人がやるようなアクションを元々はやりたかったのです。つまり、志穂美さんは、復讐のために闘う香港・中国映画の"闘う妹"よりは、危険なシーンで観る人をハラハラ・ドキドキさせたサイレント時代のハリウッドの連続活劇のヒロインのような女優になりたかったのです。それでは、志穂美さんが本当にやりたいと思っていたアクション映画とは、具体的にはどんなものだったのでしょうか。この点については、このインタビューの後続の部分でより詳しく語られています。志穂美さんは、(現代劇の場合)立ち廻りのシーンではもちろん空手を使うが、格闘シーンだけが見せ場の空手映画ではなく、ロープーウェーからぶら下るとか、爆弾が爆発する中を走り抜けるとか、高いビルから飛び降りるとかのスリリングな見せ場も豊富にあるアクション映画をやりたかったのです。さらに、復讐とかがメインの筋ではない、もっと軽快で明るい映画をやりたかったのです。映画そのものの出来は別として例を挙げると、最近の洋画では『カットスロート・アイランド』のような感じの映画でしょうか。要するに、志穂美自身さんは、悲しい表情をする必要が無い、スリリングではあるけども、軽快で明るいアクション映画をやりたいと思っていたのです。しかし、志穂美さんの願いはついにかなえられることはありませんでした。志穂美さん本人にはやや不満があるのでしょうが、志穂美さんの悲しげな表情は見る人の心を打つものがあり、ファンにとって大きな魅力であることは事実です。しかし、その陰には、志穂美さんが本当にやりたかった映画が満足な形で作られることがついになかった、という悲しい事実もあるのです。私は、志穂美さんの空手映画での悲しい表情を見るたびに、自分が本当に好きな映画に出演することがついにできなかった志穂美さんの悲しみを思い浮かべてしまいます。もちろん、これは、映画に出演した時点の志穂美自身さんの感情とは何の関係もないことですが。

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