「珊瑚舎の部屋」へ戻る


わが心のナデシコ

― 『機動戦艦ナデシコ』(山口宏 作/読売新聞版)について ―


清瀬 六朗


 ※『機動戦艦ナデシコ』読売新聞版とここで書いているのは、『読売新聞』毎週月曜日夕刊または火曜日朝刊の角川書店の全面広告に連載形式で掲載されている小説を指す。




 自分は主人公ではないかも知れない――自分の物語のなかですら。

 というより自分の物語なんてどこにもないのかも知れない。自分が生きているのはどこかのだれかの別の人の物語であって、自分はその脇役も脇役、モブシーンで一瞬だけ顔が映るだけの、観客のだれの意識にすら残らないような脇役かも知れない。

 商業的なアニメーション作品ではふつう主人公が設定されている。だが、どうして自分が主人公なのかとそのキャラクターが問うたとすれば答える用意があるだろうか? それに対して「そういう企画意図なんだからごちゃごちゃ抜かすな」という作り手の都合を持ち出して答えるのを禁じ手とするとしたら、その疑問にどう答えればいいのだろうか。

 押井守監督の『御先祖様万々歳!』は「家庭」というドラマの舞台を設定して、核家族のそれぞれのメンバー、父・母・息子の三人がその舞台での主役を奪い合う物語であった。だれもが自分が「家庭」のドラマのなかで「自分は主人公でなくていいや」と割り切り、ダメ亭主、怠け者の女房、ダメで甘えん坊の息子という役柄を演じることに甘んじていた。それを微温的ホームドラマの設定とするなら、そこに突如登場した麿子という少女はその設定をあっさり覆してしまう。

 微温的ホームドラマのなかで、だれもが心の底から「自分は脇役でかまわない」と思っていたかというとそうではない。『御先祖様万々歳!』の世界では、父・母・息子がそれぞれこのドラマの主人公でありたいという願望を強烈に持っていた。ただ、その願望を顕在化させれば、その「家庭」という舞台そのものを壊してしまうかも知れない。その恐怖ゆえに、その願望は封印され、微温的ホームドラマが演じつづけられていたのである。

 麿子の出現がその封印をあっさりと粉砕したとき、「家庭」というホームドラマの舞台そのものも崩壊してしまった。だがそれでも父も母も息子もあくまでその「家庭」という舞台の上に主人公として立とうともがく――その願望そのものがその舞台を壊してしまうにもかかわらず、たぶんそのことを知りながら。

 この論は押井守論ではないので『御先祖様』の扱いが粗略に――それこそ脇役程度の扱いになってしまうのはご宥恕願いたい。そう断った上で論を進めたい。



 ※『御先祖様万々歳!』に関心のある方はつぎのページを参照されたい。

 押井作品と戦うために――『御先祖様万々歳!』の知的地平(へーげる奥田)



 その舞台に立つ登場人物が「自分が主人公でいたい!」という気もちを解き放ったとたんに『御先祖様万々歳!』の舞台が崩壊してしまうのは、「家庭」がほかならぬ日常生活の場だからである。強い自己主張が日常の場を破壊する――それだけだったらめずらしくもなんともない。『御先祖様万々歳!』の描く逆説は、自分が主人公になりたければその微温的な日常の場である「家庭」から出ていけばいいようなものを、みんながみんなその「家庭」をめざして戻ってきてしまうということだ。その動機となるのが、一度も「家庭」の主人公となろうとするところを見せない数少ないキャラクターの一人である麿子の役割である。ともかく、その結果として、また微温的であるべき「家庭」を舞台に主人公の地位をかけた戦いが起こり、「家庭」はさらに崩壊の度を加え、最後には反社会的犯罪者集団になってしまう。『御先祖様』とはそういう物語だ。ま、この「家庭」ということば、他のことばに置き換えることができるんだけど、そのことについてはここでは触れない。

 では、『御先祖様』のように日常生活の場に戻ってくるのではなく、日常から離れてしまえばそれこそ「万々歳!」なのか? そこでは人は「主人公」の地位をほしいままにすることができるのか?

 この問いに対して執拗に答えつづけようとしてきたのが、一連のガイナックス作品であると私は思う。

 『王立宇宙軍』の後半に、主人公のシロツグが唐突に問いを発する場面がある。


 「もし現実がひとつの物語だったとして――いや、そう考えたばあいにだ、もしかしたら自分は正義の味方じゃなくって悪玉なんじゃないかって考えたことはないか?」。

 シロツグは自分で「主人公」の地位をめざしたというわけではない。自分がいいかげんな動機で宇宙飛行士を志願したことが、周囲を――ひいては「宇宙軍」の組織から自分の国全体を振り回す原因になっているということにすらなかなか気がつかない。それに気づいてとまどい、どうすればいいかわからなくなってあわててリイクニ(いちおうヒロイン)の家に逃げこむような青年である。そのシロツグがみずから状況の主人公としての立場をはっきりさせるのは、クライマックスにいたって、自分の一言で宇宙軍の「打ち上げ中止」の決断を覆す場面である。つまり、この映画は、自分のきまぐれで主人公になっておきながらそのことに気づかず、周囲に主人公扱いされることに戸惑いを感じていたような青年が、みずから主人公になることを選択していくまでを描いた映画だということもできるのだ。もちろんそこで映画としての『王立宇宙軍』が終わるわけではない。このシロツグのセリフ以後の部分を「付け足し」だと評したこの映画の評を読んだ記憶があるが、私はそのような見かたに与することはできない。



 ※『王立宇宙軍』(『オネアミスの翼』)に関心のある方はつぎのページを参照されたい。

 王立宇宙軍という映画(鈴谷了)

 私の偏見かも知れぬが(私の偏見だと思う方はどんどん反論を寄せてください)、私の接した範囲では、「おたく」文化に肯定的な態度をとる人のなかにはこの『王立宇宙軍』に対する評価が低い人が多いように感じる。「宮崎アニメの亜流でおもしろくない」と貶す声もきいた。だが私はこの映画に対してそういう評価がどうして出てくるのか正直に言ってまったく理解できない。



 過去の作品のパロディーとしてのみ評価され、とくに「おたく」礼賛の方がたには評価が高い『トップをねらえ!』も、じつはパロディーのみの作品ではない。『トップをねらえ!』のノリコは、宇宙に出ることによって、どんどん同級生たちから取り残されていく。同級生たちが成長し、お母さんになり、社会的地位を得て普通の「社会人」になって年老いていくのに、ノリコ一人が(一人じゃないけど)最後まで若いままである。その、時の流れから取り残された、アニメ・特撮ファンの「おたく」少女の物語が『トップをねらえ!』なのである。

 『新世紀エヴァンゲリオン』も取り残された少年の物語だった。父親からも母親からも取り残され、自分の置かれた状況から逃げることもできない少年が、ようやく自分が存在することを肯定してもいいという答えに到達するまでの物語である。

 『エヴァンゲリオン』の主人公は、シロツグのように自分が調子に乗った結果として主人公になってしまったのではなく、自分を取り残して行ってしまった人物に主人公になるよう強制されたという以外に主人公である根拠を持たない少年だ。少年は主人公になんてなりたくないのである。それにはいろんな負担がついて回る――それが自分の父親の筋書きのままだということも含めて。しかし、少年は、主人公にならなければ、自分が存在する根拠を失ってしまうということも感じる。主人公になるか、それともその存在を抹消されるか、二つにひとつしか選択肢はないのだ。その情けない主人公の少年が、いかにして主人公であり得るかという答えの糸口をつかむまでの物語がこの(放映版)『エヴァンゲリオン』だったのである。

 で、その『エヴァンゲリオン』のなかで、シンジ・アスカ・レイの「子どもたち」(「適格者」)三人の存在理由をギリギリまでおいつめた話の脚本を担当したのが、この『機動戦艦ナデシコ』の作者である山口宏さんであった。



 (註) 山口宏さんとガイナックスの関係については、私は、『エヴァンゲリオン』より前の作品では『ふしぎの海のナディア』おまけ映像の脚本でしか知らない。ただ、古いガイナックスファン(つまりガイナックスなんて会社がまだなかったころからのファン)のある友人にたずねたところ、『愛國戰隊大日本』のスタッフにすでに山口さんの名が見えるとのことである。


 で、この読売版『機動戦艦ナデシコ』の「プロローグ」(1996年9月30日夕刊)に溢れているのは、まさにその気分であった。

 友人たちから取り残された少年――ヒーローロボットアニメが好きで、自分もそういうアニメのなかの主人公と同じような活躍ができると信じ切って大きくなった少年は、徐々に気づいていく。自分は主人公にはなれないということ――自分を主人公としてくれる物語なんかどこにもないということに。友人たちはそれにとっくに気づいて、「自分が主人公にはなれない」という現実を受け入れていくように見える。いや、自分自身すら、自分の身体がヒーローみたいな活躍のできる才能の宿った身体ではないことに気づいていく。それでも、周囲のすべてに取り残されても、「自分が主人公でない生きかた」にどうしても現実感を感じることができない。最初に押井守監督の『御先祖様万々歳!』について触れたが、それはあたかも『紅い眼鏡』で一人だけ「取り残された」主人公である都々目紅一の境遇に似ているかも知れぬ。

 『ナデシコ』の主人公の少年おかれた境遇は、自分が主人公でいたくなんかないのにむりやり主人公でいることを強制される『エヴァンゲリオン』の主人公と対照的だ。『ナデシコ』の主人公にはきっと碇シンジの境遇はうらやましくてしようがないものに映るであろう。

 けれども、この二人は、「自分は主人公でなければ自分の存在には何の意味もない」と感じている点で共通している。というより、その思いこみに対して、必死になんとか答えを見つけ出そうとしているところが共通しているのである。そういう点において、この『ナデシコ』は『エヴァンゲリオン』の問題を継承する資格を持った作品であるといえる。

 しかし、ほんとうにそう思っているのはこの主人公たちだけなのだろうか?

 主人公から見れば「自分が主人公になれない」という「現実」を受け入れ、「主人公ではない自分」の存在に価値を見出しながらじょうずに渡世しているように見える友人たちだって、ほんとうはやっぱりおんなじ問いに対する答えを探しているのではないだろうか? たとえば、「状況からズレているお嬢さま艦長」を自分でわかって演じているらしいユリカはどうなんだろう?(――って思わせぶりに書いているんじゃなくって執筆時点ではまだわからないんですって!)。

 物語はまだ第一話(10月8日朝刊)・第二話(10月14日夕刊)までしか進んでおらず、この「主人公」が物語のなかでどう「主人公になっていく」のかわからない。『エヴァンゲリオン』の主人公が、物語の主人公になることから逃げる自由を与えられたときにけっきょくそこから逃げられなかったように、『ナデシコ』の主人公は、主人公になることができるチャンスを与えられたときにどう行動するのだろうか? 主人公になれればそれで万事はOKなのだろうか? それとも、むしろ物語はそこから始まるのだろうか?

 今後の展開に期待したいところである。


                    ― 1996年10月19日執筆 ―


 (註) ところで、このページでは読売新聞版についてもっぱらとりあげ、放映中のアニメ版については触れていない。なぜかというと私がアニメ版を見ていないからというそれだけの理由である。そもそもこの読売新聞版に気づいたのがテレビでの第一話放映が終わってしまった後のことであった。私が『チャチャ』で山口さんの仕事に注目していたことを知っていた某友人(本文中の「古いガイナックスファン」である)から教えられて、いちど片づけた新聞を拾い出してきてようやく記事を見つけたという始末である。

 というわけでアニメ版については私は何も知らないので、もっぱらその某友人の話に拠って概略を書いておきたい。

 アニメ版では山口宏さんは「ベースプランニング」としてクレジットされているらしい。つまり、この読売版がアニメ版の「原作」に相当するのだろう(ユリカなど人物像がかなりちがうという話であるが)。本職が脚本家である――と私はこれまで認識してきたが――山口さんがどうして本編の脚本まで担当しないのかちょっとふしぎである。なお、監督は、『飛べ!イサミ』(『WWF13』のページ参照)の監督を務めた佐藤竜雄氏とのことである(そういえば、夏に買った同人誌に、佐藤さんの新作が云々って話が出ていたのがこれのことだったのか……)。



 ・「珊瑚舎の部屋」へ戻る
 ・山口宏作品の部屋へ戻る

 ・「オリジナルコンテンツ」のページへ戻る