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空間と倫理 序論

バージョン4

〜アニメーションを軸に考える〜

 

谷風 公一


  

 

 耳に届く電子アラート。と同時に眼前に広がる緑色のサンドストーム。一瞬のゆらめきとともに、浮かび上がるターゲット。デジタル解析を繰返し、幾許か鮮明になる画像。そして明滅するロック・オンのサイン。それは「指示に従い、トリガーを引け」というコンピュータからの指令だ。その瞬間、すでにパイロットは傍観者となり、「見る者」としての主体は放たれたミサイルに剥奪される。複雑な弾道を描きながらターゲットへ向かい、黒鋼の裸身を突き立て、恍惚を放つ、その瞬間まで見開かれた機械の目。パイロットは、その一瞬の官能を傍観する間を与えられることもなく、次のターゲットへ向かうほんのわずかな時間、また「仮の主役」を担うこととなる。

 湾岸戦争でCNNが報道したこうした映像群は、いまや全世界周知のものとなった。戦争はもちろんのこと、天災、局地、宇宙、そして、体内や仮想現実に至るまで、「見る者」はさらに速く、さらに小さく、さらに持続的となり、ヒトがヒトでありながら状況の突端で主役を張る時代は終焉した。ヒトがヒトでありつづける限り、彼らに残された役割は見たかのように語りやったかのように誇る三枚目のカミか、沈黙の笑みを浮かべる純朴愚直の盲目聾唖か、二つだけとなり、さらに映画「マトリックス」に従えば、その役割すら奪い去られる瞬間はもうそこまで来ているのかもしれない・・・。

 

 さて、前々回の「押井学会」拙論において、筆者は、「身体の拡張」について試論した。これは、押井作品に登場するヒロインの「作品世界における立ち位置」を確認しながら、いかに彼女たちと「世界」の関わりが変容してきているか、を、いささか脚色して述べたものだ。つまるところ、「世界」を作ってしまった「ラム」から「世界」になってしまう「草薙素子」に至るまでの「身体の拡張」もしくは「世界の収縮」。そしてついに「この世界は狭すぎる」と世界の外に離脱する「アッシュ」。これらをもし「物語」という軸で考えるならば、もはやヒトは物語を紡げず、しかし世界にも物語はなく、では物語は奈辺にありや、と問われれば、「ここにはないどこかである」である、と呟くほかない。リセット不能なクラスSA・・・。だが本来、物語とは斯様に不可逆なものであるべきなのだ。彼女たちは本来ヒトがヒトとして担う役割を離脱し、「見る者」としての主体を総力で勝ち得、固有の「存在」となった。超人、述語を回収する主語、云々(フーコー、ドゥルーズを見よ)。

 可逆的な述語にはもはや物語はなく、不可逆的な主語にのみ物語が存在可能である、と仮定し、押井直近作である『アヴァロン』『イノセンス』の主題をその仮定に重ね合わせれば、存外古風(?)な「意味性」が浮かび上がる。たとえば『イノセンス』において押井の主題のひとつとなっていた「死」の感覚などは一般的には非常に強力な物語的要素である、という意味において、古風な意味性のひとつと言えるだろう。押井が物語的要素を主軸として物語を語る事態。ポストモダニストたちが状況の飽和、あるいは氾濫する述語、からこぞって主体へ回帰したことと『イノセンス』の物語性になんら関連があるわけではないが、しかし少なくとも、状況(述語)としての世界を主軸とした物語の究極態(『パトレイバー2』)を経て、なぜいま「この世界」において「この世界の人間」として「物語」を作ることが押井の中で腑に落ちたのか、という疑問を設定することは、それほど特異なものではないように思えるのだ。かつて述語としての「状況」をさまざまな形で豪奢なまでに装飾した押井のペダンティズムも、『イノセンス』においてはその目的と質感を変え、灰色の石の神殿となって「死」という物語を剛健に堅守する(ギリシャに帰るアルシヴィスト?)。こうした「死」へのこだわりを、本人の言に従い、「日常的環境」に溶解するのは、状況こそ違え、前回「押井学会」拙論同様、あまりに無粋であると思う。「死」に接したから「死」に関する物語になりました、チャンチャン。そうではなく、すくなくとも押井にとって「死」はきっかけであったのであって、それを即「物語としての(物語るための)物語」として帰結させるには『イノセンス』はあまりに「美し」すぎる。「見える世界」としての美しさは、本来『パトレイバー2』のように状況そのものが「物語」となるような作品に相応しく、あるいは、「不可逆かつ到達不能なもの」であるところの「物語性」は『アヴァロン』に見られるような抑圧からの解放(『天国と地獄』的な)を伴うのが自然ではないか。『イノセンス』においては、「全て」は「ここ」に押し込められている、といえるだろう。

 

 『イノセンス』に関し、さまざまな関係者の言を総合するに、押井は恐らくこう言った。「3Dモデリングでセットを論理的に構築し、ロケハンをして、コンテを切ろう」。前回拙論において「アニメーションは必要性の芸術である」と筆者は述べた。「必要なもの」のみでしか構成され得ぬ「融通の利かない表現」であるアニメーションに「偶然」の二文字はなく、「不必要なものをなるべく暈かし、可能な限り偶然を取り除くことで妥協する」実写映像による表現とは、全く軌を異にする。アニメーションにおいては、監督の頭中にある「映像的なリアル」が一〇〇%具現化することで作品が完成する、と。しかし、『イノセンス』においては、もはやこの論説は撤回せねばならない。たとえば、作りこまれたセットとしての食料品店。本物をスキャンして再構成した雑貨が所狭しと並べられ、店内の奥行きも正確にパースが取られ、登場人物が取った導線以外の場所もまた、正確に「食料品店」として厳然と存在する、という事実。「本当にこのレイアウトで正しいのか?」その疑問をアニメータが技術的に確かめることが許される瞬間、アニメーションの制作現場は専制君主制から民主政治にシフトする。「監督の絵コンテ」という預言の書の類はもはや存在せず、「複数の構図から選ぶこと」がレイアウトの技法となるのであれば、演出の手段を視覚的に監督以外のスタッフが保持する状況が成立する以上、もはやアニメーションにおける監督の専制君主制はありえない。権力構造の転換、という稀有の瞬間がそこにはある。「一望監視」装置はもはや権力構造としてではなく方法論として機能することとなる。あるいはその一方で、では権力構造は転換するのか、と問われれば、偶然性を取り込んだ視覚的多様性の中に「物」として、「述語」として、その役割をはめ込まれることとなる。ここにおいて、「ヒト」と「世界」と「物語」の関係は、一層、メタに降りてくるのだ。

 この状況はおそらくアニメータに対し極度の緊張を強いるはずだ。職人としての技量と同時に問われるマネジメント手腕、(恐らく)極限まで作りこまれた解像度の高い3Dモデリングセットに配置された2D作画の処理方法の新調(コマ数、スピード、視覚的なウソ、等)など、大量の課題が、一気に彼らを襲う。もしこうした権力構造の転換がこれからのアニメーション制作の主流になるのであれば、それはアニメータとして成立する人種すら変えてしまうかもしれない。アニメータにおける優生概念が更新されるのだ。

 

 『イノセンス』における表現方法と組織構造について、3Dモデリング技法をもとに、その転換可能性について論じた。ここで論を帰納させよう。3Dモデリングセットにおける演出の妥当性とは、「空間を区切る」ところから始まる。そして、「区切られた空間」は「モノ」としての権力構造を伴い、現実世界へ降りてくる。その瞬間、一人の演出家の脳裏に描かれた「物語」は美と病理を超えて、倫理と呼ばれる組織構造の圏内への帰着を迫られる。「空間を区切る」ことにより立ち上がってくる「倫理」は、「物語」に付与される従来の「倫理」よりも堅牢にして隠潜だ。

 そも、空間とはなにか。空間とは、区切られることにより認識できる、ひとつの「述語」である。では区切るのはだれか。それは、権力への意志をもつ者である。権力への意志をもつ、とはなにか。それは躊躇しないことである。全より一を選ぶ、ということである。一であるということは、なにか。それは「中心である」ということである。

 権力への意志をもつことを線分とし、選ばれた一を中心とする、権力構造としての「一望監視」装置は、アニメーションの世界において、技法と化した。技法としての権力によって区切られる空間の述語性を真っ当に検証する手段は倫理以外にない。それはアニメータにおける優生概念を鑑みれば、必然の帰結だろう。そこにはたとえば、ハイデガーに対するアーレントのような立ち位置が求められるのであろうが、それはいずれ上梓する本論にて改めて行うこととし、ここではアニメーションを軸とした空間論理の有用性を中心に論じたことをもって、結語としたい。

〈了〉

 

 


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