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――ある少年向け読み物について



〜学研「ジュニアチャンピオンコースシリーズ」〜





鈴谷 了





 幼少時に接する文物、テレビやコミックなどについてはよく影響が云々されるものだが、それが果たして成長後にどうなるのかという点にまで言及した議論は少ない。「こんな暴力的な番組を見ている子どもはきっとろくでもない大人になる」という意見は、今日でも新聞の投書欄に載るが、実際にそうなのかを検証した研究はないようである。

 ポピュラーなテレビなどでもそうなのだから、まして書籍となるともっと少ない。いわゆる名作有名小説の類ではなく、通俗読み物が与える影響など、滅多に省みられることはない。
 だが、そうした書物の方が広い範囲にわたって秘かにある世代の価値観などに影響を与えていないとは、誰が言い切れるだろうか。残念ながら、こうした通俗読み物はきちんとした研究はおろか、記録さえ十分されずに消え去るのが実状である。

 今回取り上げるのは、筆者が多分に影響を受けた「通俗読み物」の一つである。とはいっても、今の目で振り返るので「あれはよかった」と単純に誉めるわけではない。「こんなバカなことが書いてあった」という部分も盛り込みながら、「子ども」にとっての「影響」を明らかにしたいと思っている。



 一九七〇年代初め頃、本好きの小学生にとって「学研」の持つブランドイメージは絶大なものがあった。もちろん、有名な『科学』の教材付録の力もあったけれども、そればかりではない。

 たとえば「学研の図鑑」である。この図鑑が出るまで、学習図鑑といえば小学館などが出していたが、それは恐ろしく地味なシロモノだった。ぱっとしない「挿し絵」(「イラスト」よりはこの呼び方の方がぴったりくる)に詰め込み気味のレイアウト。カラーも少なく(カラー写真など口絵にしかない)、字も細かかった。だが、「学研の図鑑」はそうした学習図鑑のイメージをがらりと変えた。カラーページを惜しげもなくばんばん使い、大きい文字に見やすいレイアウト。「学研の図鑑」の登場で今までの学習図鑑は一挙に陳腐化した。実際、数年を経ずして各社の学習図鑑は改訂を余儀なくされた。

 これとて、欧米の学習図鑑にお手本があったのではないかという気がするが、それはともかくこの当時の学研に児童向け出版の企画にたけた智恵者がいたことは確かである。

 「学研まんが」も同工異曲の先行シリーズがありながら、レイアウトとデザインセンスの良さでこれもヒットした。

 さて、そんな学研が次に送り出したのが「ジュニアチャンピオンコースシリーズ」である。これは「まんがよりは字を読む中学年以上」をターゲットにした「実用書&読み物シリーズ」であった。と同時に、どちらかといえば「理系」ネタが強かった学研児童書の中で、初めて文系指向を持ったシリーズでもあった。学研の「理系」指向は、『科学』の方が(教材付録の魅力もあって)『学習』よりも圧倒的人気があったことにも端的にあらわれている。筆者自身、算数の苦手な文系少年だったけども、六年生に至るまで購読していたのは『科学』の方であった。それだけに、文系ネタが多かった「ジュニアチャンピオンコース」は異色の存在だった。

 だが、そのことは同時に(「実験と観察」がモットーだった)学研が『ムー』に至るオカルトネタに手を染める端緒となったともいえる。

 「ジュニアチャンピオンコースシリーズ」は 版のサイズで、赤・青・緑・黄色が遷移するような色の装丁だった。紙のカバーがついていたが、カバーの下も同じである。シンボルマークとして「ライオン」のイラストが用いられていた。



 以下、主なシリーズの本をあげてその過程などを追ってみよう。この文章を書くに当たって、学研にこのシリーズについての資料がないかを電子メールで尋ねたところ、担当者に電話の上でファックスでなら回答可能とのことであったが、あいにく拙宅の電話にはファックスがついていない。よって、以下の記述はすべて筆者の当時の記憶に基づくもの(所有していた本もすべて処分してしまった)とせざるを得なかった。それゆえ、思い違いもあるかもしれない。





 ○『世界のなぞ 世界の不思議』(一九七二?)



 創刊時に出た中に含まれていたのがこの本である。ちなみにその他のラインナップは野球技術本、料理本などであった。野球本は『ONの野球教室』というタイトル。のち、長島の現役引退後は『王・長島の野球教室』と改題された……っていっしょやんか。別に王や長島が直接書いたわけではむろんない。当時はこのほかにもONの名前を借りた野球本があった。当時、野球少年にはONは神様のような存在だったのだ。しかし、近年『イチローの野球教室』あるいは『カズのサッカー教室』といった本がないのはどうしてなんだろう? 昔と違ってプロスポーツ選手が子どもに優しい「善人」であるという神話がなくなったからだろうか。

 脱線はさておき、この本では「古代遺跡や変わった習俗などを紹介する」というのがスタンスで、オカルト度は30%程度である。

 万里の長城やピラミッド、ナスカの地上絵(デニケン流の解釈はしていない)、マヤ文明、イースター島のモアイ、ヘディンによるロプ・ノール移動説、チベットの鳥葬などが紹介されている。それらに混じって、日本からは秋田の大湯ストーンサークルや北投石、玉川温泉が取り上げられている。秋田ばかりというのをいぶかる向きもいるかもしれない。実はこれはずっと後に著者を知るに及んでその理由が判明した。
 この本の著者はオカルトライターの草分けだった佐藤有文である。これがわかったのは『トンデモ本の逆襲』で彼のトンデモ短編小説集『骨なし村』が紹介されたおかげだった。彼が秋田出身なのはその中で触れられているが、『骨なし村』に収録された作品でもストーンサークルと玉川温泉ネタを使っているのだ。彼はよほど愛郷心に富んでいたのだろう。

 「未開習俗」を扱ったあたりは、唐沢俊一氏が『と学会誌 No.6』の「不思議な雑誌」の紹介に書いたような背景とつながっているのかもしれない。その対象がすでに海外だけになっていたというのが70年代らしさだろう。それにしても「成人儀礼」としておどろおどろしく写真付きで紹介されているバンジージャンプが、やがて遊園地のアトラクションになるとは誰が予想しただろう。

 さて、この本の最後の章は「科学で解けないなぞ・不思議」と題されていて、ここがオカルトネタ満載のパートだ。UFO関係は「定番」の一つ、マンテル大尉の撃墜ネタ。ネッシーや雪男ももちろん押さえている。ほかにこれまた定番の人体自然発火ネタもある。

 興味深いネタの一つが、「宇宙からの怪電波」というもの。これは英国のエリオット教授という科学者が一九六一年に「宇宙から規則正しく送られてくる電波」の存在に気づいた、というものだ。文章は宇宙人の通信かもしれないとにおわせながら「エリオット教授は今も調査を続けている」と結ばれていたと記憶する。今の知見では、この正体はパルサーと判断するのが妥当だ。

 宇宙人からの通信という見方自体はそんなに突飛なものではない。若き日のカール・セーガンですら、パルサーの第一報を聞いたときには「進歩した知的生命体が設置した宇宙航行用のビーコンではないか」と思ったというくらいなのだから。ただ、この『世界のなぞ 世界の不思議』が刊行された頃にはすでにパルサーの学説はほぼ学界の定説となっていた。(パルサーの発見史には「エリオット教授」という人物は出てこないが)この辺がオカルトライターの悲しいところである。

 同じようなことは、やはり定番のアトランティスネタについてもいえる。アトランティス自体の紹介はまあよいとして (「オリハルコン」などに触れていないのは良心的)、大西洋の断面を示し、中央の盛り上がった部分を「ギョー?」と書いてあったのは、これまた(当時としても)時代遅れの解釈だ。大西洋の調査が進み、この頃にはすでにこの「盛り上がり」が海嶺であることが確認されていた。もっともそういう「まとも」な本を読んでいれば、「大西洋中央部の大陸が一夜にして深海に没した」などということがおおよそ起こり得ないこともわかってしまうのだが。

 また、「島が磁石でできていて、船のコンパスが狂いあげくに島に引き寄せられて沈んでしまう魔の島」としてセーブル島という島が紹介されている。セーブル島自体はカナダの大西洋岸にある実在の島だが、こういう話は他では聞いたことがない。ただ、古地図についての本を読んでいて、興味深い記述にぶつかった。それは、コンパスを用いて航海をするようになった時期から、「磁石でできていて、コンパスが狂ってしまう」という架空の「磁石島」が地図上に描かれることが多くなったというものである。もしかすると、そうした「船乗りのフォークロア」が時代を超えて生き延び、「海の難所」と結びついてできたヨタ話ではないか、などと考えたりする。

 眉唾臭いネタとしては、アメリカの「スーパーステーション山」という山に数人で入ったところ、一人が発狂して残り全員を撃ち殺し、自分も自殺したという話がある。読んだときには「こわいところもあるなぁ」と思ったものだが、よく考えてみれば、全員死亡したならどうやってその状況がわかるのだろうか? それに「スーパーステーション」は英語で「迷信」という意味なのだ。

 バミューダトライアングルと、日本で起きた「自動車消失事件」「歩行者消失事件」も紹介されており、いずれも「四次元空間に行ったのだ」と説明されていた。子ども心に「四次元空間に入ったらどうしよう」などと思ったものである。

 アメリカ・オレゴン州にある「重力のおかしな村」(これ、別の本で「証拠写真」も見たことがあるけど、最近は聞かないぞ)とか、戦時中にフィリピンのジャングルで道に迷い、右に行っても左に行っても同じ場所に戻ってしまった日本兵の話とかもある。後者の話は、ほとんど方向を確認するもののないジャングルの中などではよく聞く話で、とりたてて騒ぐようなものではないのだが。
 細かいコラムでは三田光一の「念写」も出ていた。



 このコーナーの最後を飾るのが予言ネタである。ディクソン夫人、日本の北条ナントカさんという女優(でもこの人のことは本業の女優では聞いたことがない)、そしてノストラダムスだ。もちろんこの本が出たときには五島勉の本はまだ出ていない。誰の予言解読を見たのかは定かではないが、一九九九年の予言は「宇宙人が地球を襲うが、地球人はそれを撃退する」となっていたと記憶する。三七九七年に「人類は神様の裁きを受ける」というところまで書いてあった。

 筆者はこの本を先に読んでいたので、五島勉の『大予言』が出たとき「一九九九年人類滅亡」とあるのを知って「あれ?違うやんけ」と思ったものである。そのときに、この予言自体が胡散臭いものだというところまで気がついていればよかったのだが、あいにく小学二年生にはそこまでの洞察力はなかった。
 ともあれ、この本は売れたらしい。ほどなく続編が登場することになったからだ。



 ○『怪奇ミステリー』(一九七三年)

 これも佐藤有文の作。「ミステリー」と銘打っているだけあって、前作では控えめだったオカルトテイストがこちらでは全開となっている。

 最初は米子の話という触れ込みで「雨の日に橋のたもとにずぶぬれで立っていて、タクシーに乗り込み、途中で水だけ残して消えてしまう女性の幽霊」という定番ネタ。現地の写真も掲載されていて、ツカミとしては申し分ない。続いて、「足のない幽霊」を創出した円山応挙の幽霊画の祟りというネタ。四谷怪談の「祟り」もちゃんと紹介している。

 今思い出して傑作なのは、「ケネディの生まれ変わり」というネタ。一九六三年に西ドイツで生まれた少年が、弟を見て「これはジョンで自分の息子だ」と口走ったり、行ったこともないホワイトハウスの内部を詳しく知っていた、という話。調べてみると少年の生まれた時間はケネディの死亡時刻と一致していた、という落ちも付く。最後には「すっかりケネディそっくりになった」とか書いてあった。でもなぁ、ドイツ人なら「ジョン」じゃなくて「ヨハン」じゃないのか? ケネディの再来なら、野原しんのすけよろしく、近くの綺麗なおねーさんに声をかけていたんだろうな、きっと(笑)今も生きていたら三五歳である。政治家としてドイツ連邦議会に出馬してもよさそうなもんだが、そんな話も聞かない。冗談はさておき、西ドイツでもケネディに対する敬愛は強いものがあった。亡くなった年には西ベルリンを訪問し「私もベルリン市民だ」という演説をして、当時の西ドイツ国民・西ベルリン市民をいたく感激させてもいる。そうした背景があって出てきた話ではないかという気がする。

 また、「脳が溶ける奇病」というネタもあった。話はタイトルの通りで、イラストがまたおどろおどろしく、子どもをこわがらせるには十分だった。「これは水俣病のような公害病ではない」と書いてあったのだが、そこについていた「患者の発生場所」という世界地図では日本の発生地が「熊本」と「新潟」……って、水俣病の発生地だぞ、それ。この手の「都合のいい資料」を引っ張ってくるのはこうした類の本の常套手段だから驚かないけど。

 ルルドの泉やお菊人形という定番ももちろんある。呪い関係では、第一次大戦の引き金となった、オーストリア・ハンガリー帝国のフェルディナンド皇太子夫妻暗殺事件の車というのがあった。暗殺のときに乗っていた車がその後数人の手に渡り、いずれも怪死や事故に遭ったというもの。最後に車はベルリンの博物館に収められたが、第二次大戦のときに失われた(あるいは行方不明だったかもしれない)とあった。

 ところが、これにウソがあることが最近になってわかった。一九九五年に放映されたNHKスペシャル『映像の世紀』において、この車が現在もウイーンの軍事博物館に展示されていることが紹介されていたのだ。(ちゃんと暗殺事件の際の弾痕も残っている)調べれば簡単にわかる車の現況にウソをついていたのだから、それまでの経歴の部分も疑ってかかった方がよさそうである。その後の所有者が弾痕をそのままにして乗り回すとは普通は考えられない。ウイーンの軍事博物館に問い合わせればことの真偽はわかるだろう。

 似たようなのが「ホープダイヤモンド」というネタ。一八世紀にフランス人が東南アジアの寺院にある仏像から無断で持ち帰った大きなブルーダイヤで、マリーアントワネットはじめそれを身につけた人間がみな悲惨な横死を遂げ、今では引き取り手もなくニューヨークにある銀行の金庫に保管されている……というもの。こっちの方はどうなんだろうか。ためしにインターネットで調べてみると、「ホープダイヤモンド」という名前のブルーダイヤは確かに存在しており、それは今ワシントンD.Cにある米国国立自然史博物館に展示されている。(45カラットあるらしい)博物館のホームページによると、一七世紀の初め頃にインドで発見され、海と大陸を越えて王や市民の間を転々とし、その間盗まれたり売られたりカットされたりということを経て、一九五八年にHarry Winston という人物から博物館に寄贈されたとある。呪いの話云々には触れていない。ホープダイヤモンドという名前のものがいくつもあるとは考えられないから、おそらくこれのことであろう。呪いの部分の真偽は確かめようがないが、少なくとも落ちの部分はフェルディナンド皇太子の自動車同様、話をおもしろくするための「ウソ」だったようである。



 人体関係では、義眼から目が見えたという少年の話とか透視能力の話とかが出てくる。また、キリストが磔にされた場所と同じ部位から十字型の出血が出る「奇跡」が起きた南アフリカの少女というのもあり、これは写真付きで載っている。彼女が十字型に出血の浮き出た手のひらを向けているというものだ。でもこれくらいなら、傷を付けてもできそうな気がするが。今ではガセネタであることがはっきりしている「ノーチラス実験」もあった。

 今読めばあれこれと「楽しめる」のだが、当時はやっぱり「怖い」という気分が先に立ち、結局筆者はこの本は自分で買わなかった。





 ○『もしもの世界』(一九七三年)

 オカルトとは少し違うが、似たような場所にある一冊。『科学』か何かに「不思議SF」と紹介されていて、「SF」という言葉を知らなかった筆者は親に尋ねた覚えがある。「科学の読み物」とかいう答を聞いて、きっと楽しい本だろうと思い期待したものだ。表紙の絵には宇宙服を着て宇宙空間を飛ぶ人間のイラストも描かれていた。

 百貨店に買い物に行ったついでに書籍コーナーでこの本を立ち読みしたら、期待していたものとは全然違い、暗然とした。書いてあるのはおしなべてネガティブな想定による「未来」ばかりだったのだ。「もしも日本が沈没したら」「もしも核戦争が起こったら」「もしもペストが大流行したら」……。この当時の終末論ばやりに調子を合わせたといえばそれまでだが、子ども心には嫌なものを見せられたように感じた。当然この本も買わなかった。傑作なのは「もしも重力がなくなったら」というネタ。突然みんなふわりと浮き上がって……って、「重力」が何かを理解しているんかい?





 ○『七つの世界の七不思議』(一九七四年?)

 『世界のなぞ 世界の不思議』の実質的な続編。ライターが変わったのか、重複したネタも多い。特筆されるのは人体ネタが増えたことで、金歯が生えてきた子どもの話とか、しっぽがある少年とか載っている。
 明治時代に福来友吉が「発見」した透視女性で自殺した御船千鶴子の話や、少年が夢で見た龍が洗濯板に絵として焼き付いたという戦前の話とかもある。(でもこれも現物の写真はないんだな)

 古代文明ネタでは中国の殷王朝が珍しく載っていた。ツタンカーメンの呪いもある。

 予言ではすっかり有名になったノストラダムスも出てくるのだが、その出だしがいきなり「女が船に乗って空を飛ぶ、その後偉大な王がドルスで殺される」という、五島勉が『大予言』で「創作」したネタの紹介である。つまり、『大予言』をネタ本にしていることがまるわかりというみっともないものだった。



 この頃学研は別の児童書で、オカルトネタを「暴走」させて痛い目にあっていた。
 それは「ユアコースシリーズ」という、ソフト装丁のシリーズである。この一冊として、「人体の神秘」を取り扱った本が出た。(残念ながらタイトルまで覚えていない)同じシリーズの他の本に載った広告では、太い鉄棒が貫いた頭蓋骨の写真(刺さったまま何年も生きたらしい)がついていた。友人の一人がその本を持っていて、見せてもらったことがある。それは短い時間で(しかも数人がいっぺんにのぞき込むような状況だった)十分には読めなかったのだが、かなりグロい内容だった。一歩間違えばフリークスというネタばかりだったのだ。見出しの一つに「一八歳で母乳をチュッチュ!」というネタがあり、写真まで添えられていたことを覚えている。当時においても、差別や偏見と取られ兼ねない内容である。ほどなくこの本はシリーズのラインナップからひっそりと消えていた。おそらく、内容に関して抗議があり、内々に学研側が絶版と自主回収を行ったのであろうと思われる。

 この一件があってから、ジュニアチャンピオンコースの方のオカルトネタもある程度トーンダウンしたようだ。





 ○『UFOを追え』
(もしかしたら違うかもしれない。一九七五年)

 ついに出ました、という感じのオカルトネタの本家であるUFO本。しかし、内容の方は至ってまとも。冒頭に出ているのが、「四国の少年によるUFO捕獲事件」。と学会の何かの本で、山本弘会長が「最近の若いのは四国のUFO事件を知らない」と書いていたが、筆者もこの本を読んでいなければ知らなかっただろう。

 アダムスキーとかロズウェルとかキャトルミューティレーションとかいった、怪しさ満載のネタはまったく入っていない(もっとも「UFOの内部想像図」というのはそれなりに笑える)。

 巻末の「詳しく知りたい人のために」というところには、まともなUFO研究団体・研究雑誌も紹介されていた。たぶん高梨純一氏あたりが監修していたのであろう。このシリーズのオカルト系の本の中ではもっとも良心的な部類の一冊。



 ジュニアチャンピオンコースシリーズはオカルトだけではなかった。実録ネタというのもあった。それを2つ。





 ○『世界を驚かせた大事件』(一九七四年)

 日本以外の世界で起きた犯罪・事故・科学的業績を扱った本。表紙にはまだ日の新しかった日本赤軍による日航ジャンボ機乗っ取り事件の写真が扱われていた。

 本文の方は、冒頭が映画『大列車強盗』のモデルとして有名な英国の列車強盗事件。犯人の一人、ヒックスがまだ逃亡中……とあったのだが、この本が出る少し前に彼の身柄はすでに拘束されていた。

 リンドバーグ夫妻の長男誘拐事件、ケネディ暗殺、ルマンの24時間レースでの大事故、ニューギニア・ラミントン火山の熱雲災害、タイタニック号沈没、ソ連のソユーズ11号事故、PLOによる連続旅客機乗っ取り事件などが取り上げられている。PLOの女性闘士であるライラ・カリドの名前なんてこの本がなければ知らなかったろう。(余談だがアニメ『機動戦士Zガンダム』に「ライラ・ミラ・ライラ」なる女性MSパイロットが登場したとき、そのネーミングに筆者は苦笑したが、元ネタを知っていた人間が周囲に全然おらず、拍子抜けした) また、タイタニック号の沈没では、最近「復権」が話題になった唯一の日本人乗客・細野正文氏についても短いコラムで触れられていた。



 この本の中で、もっとも強烈な印象を与えたのはアウシュビッツ強制収容所のネタだった。アウシュビッツに連行されたユダヤ人がガス室に送られ虐殺される記述から始まり、ヒトラーによる人種政策が小学生にもわかりやすく説明されている。この部分を読んだときの「こわさ」は今も鮮明だ。その「こわさ」は、それまでのオカルトネタの「こわさ」とは明らかに異質のものだった。オカルトネタのこわさは「お話」としてのこわさだったが、これは「本当に起きたこと」という底知れぬ恐怖だったように思える。犠牲者が残した眼鏡の山や、ビルケナウ(第二)収容所の「死の門」といった「証拠写真」まであったのだから。おまけに最初のページには、ガス室でもだえ苦しむ女性のイラストまで載っていて、効果倍増である。筆者は実際、このページをしばらくの間開かなかった。

 今にして思えば、ここでアウシュビッツとユダヤ人虐殺についての知識を得たことはよかったと思っている。(小学校時代、そうした教育を受けたことはなかった)それも、このような「トラウマ」に近い形の方が効果的なのだ。中沢啓治の『はだしのゲン』はしばしば「トラウマンガ」と呼ばれたりするが、それは「おぞましくて読みたくなくなるようなものでなければ、原爆の真の恐ろしさは伝わらない」という彼の信念の産物だからである。実際、筆者は小学生の頃にビキニ環礁の水爆実験を題材にした『とびうおのぼうやはびょうきです』(いぬいとみこ)という児童文学を授業で読み聞かせられたが、意味がまったく分からなかった。いぬい先生には悪いが、オブラートにくるみすぎるのはかえって逆効果なのだ。



 閑話休題、「科学の業績」には一九六八年の人類初の心臓移植が登場する。が、その記述の中に「拒否反応やそれを押さえるための抗生物質の投与などの問題があって、移植手術は下火になっていった」とあったのは、事実とは異なる。それをこのように書いたのは、「和田心臓移植」の問題により事実上心臓移植が凍結されてしまった日本の実状に合わせたとしか考えられない。読者が心臓疾患の家族を持っていた場合に、説明ができなくなることは十分あり得るからだ。

 そういった点はさておき、この本は「ジュニアチャンピオンコース」の中でももっとも出来のいい一冊だと筆者は考えている。



 ○『あの事件を追え』(一九七四年)

 『世界を驚かせた大事件』の日本版。というより、こちらが先に刊行されたはずなのだが、なぜかなかなか本屋で見つからずに苦労したことを覚えている。

 内容は戦後日本の犯罪・事故・科学的業績といったところだが、特徴的なのは容疑者・被告の名前がすべて仮名に変えられていたことだ。たとえば、帝銀事件の平沢貞道は「相沢貞通」になっていた。また、吉展ちゃん事件の小原保は「おばら・やすし」という読み仮名にされていた。これは、関係者の子どもがこの本を読むかもしれないという配慮に基づくものだろうが、「大人のメディア」では本名が使われているのだから、少々片手落ちの面は否めない。それならば、すべて名前を出さないという方がまだよかったように思われる。(浅沼稲次郎暗殺犯の山口二矢は「右翼のY少年」とされていた。もっとも「右翼」という言葉の意味が小学生にはわからなかった)

 この本では三億円事件も出てくるが、当時刑事訴追の時効が迫って、マスコミの話題になっていた時期である。民事時効の消滅からももう一〇年たった今では随分時間が立った感が強い。



 筆者が読んで覚えている「ジュニアチャンピオンコース」はこのあたりまでである。他に覚えているラインナップとしては、警察捜査ネタ、推理クイズネタ、世界記録ネタ、宝探しネタ(一時話題になった「赤城山の徳川埋蔵金」も出ていた)、登山・探検ネタ、占いネタ、ペットの飼育法、マジック入門といったものがあった。一つのシリーズでよくこれだけジャンルの違うネタを詰め込めたものだと感心する一方、こうしたジャンルの多くが一種の「トンデモ」や「オタク的興味」に近い領域に集まっていたことも再認識する。こうしたシリーズの読者の幾分かが、間違いなくその後そういった方面に興味を紡いでいったはずである。



 ここまで書いてから、インターネットの古書店のホームページで、このシリーズが最後は「入門チャンピオン・コース」と名を改めて一〇年ほど前に絶版になったことを知った。(絶版は消費税の導入時かもしれない)カタログで一〇〇〇円程度の値段が付いていたが「品切れ」となっているものも多かった。失われた児童書を追いかける難しさを思い知らされた。

 書店や図書館の児童書コーナーを覗いてみても、最近はもうこうした本は出ていないようだ。昔と違って児童書にもいい加減なことを書く本は減り、きちんとした資料に基づいて専門的に書かれたものが多くなったようだ。逆に言えば、その分、総花的なシリーズというものが消滅してしまったのだろう。
 もっとも、だからといってかつての通俗読み物が子どもにとって変な影響をばらまくだけのものだったと、筆者は言いたいわけではない。「読み物」として子どもたちを惹きつける「おもしろさ」を与えたのであるから。



 子どもの頃に受ける影響は確かに大きい。だが、それを取捨選択する判断力もまたその時期に養うべきものである。

 こうした構図は「トンデモ」に限らず、歴史の読み物などにも言えることだろう。いわゆる「英雄伝」は歴史を学ぶ上ではあまりウエイトを置くべきではないとされる。実際それに偏重した時代の苦い経験があり、それをもとに「社会史」として歴史を学ぶ方向が現在に至る流れだ。だが筆者は小学生の頃、アレクサンダーやカエサルといった人々の事跡を、「英雄伝」的な歴史読み物で知った。歴史に接する「入り口」として、決してそれは悪い出会いではなかったと考える。

 通俗的なおもしろさと、学問的な正確さや教養とは完全には両立しないかもしれない。が、それは二者択一ではなく場合によって選択される性格のものだろう。自分と違う立場の書物が横行していることを「洗脳」と攻撃することよりも、読み物のあり方や判断力の育て方を考えることが、子どもの本のためには重要なことではなかろうか。



(1998/12)





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