だから、自動車が同じ速度で走り続けているのを外から見て、しかもその自動車に地面との摩擦や空気抵抗が働いていることが私たちにわからなければ、それは等速運動に見え、力は使われていないように見えるだろう。自動車が力を出していることも知らず、地面や空気が自動車の運動を止めようとする働きを持っていることを知らなければ、そこに力が働いていることは物理学的には探知のしようがないのだ。しかし、自動車が力を出して走っていることか、その動きを妨げようとする地面や空気の存在かのどちらか一方を知っていれば、私たちは他の一方を推定することができる。自動車がたえず力を出して走っていることを知っていたなら、私たちは、自動車の運動を妨げる地面や空気の存在を推定することになるし(あるいは地面や空気が自動車の運動を妨げることを推定することになるし)、逆に自動車の動きを妨げる地面や空気の存在を知っていれば、自動車がつねに力を出して走っていることを推定する。
運動のようすを観察し、その運動が行われている環境を観察することで、私たちは、直接にはその効果が見えない「力」が働いていることを知ることができる。逆に、ある力が働いているはずの運動のようすを観察することで、その周囲の環境にどんな物質があるのかを知ることができる。
たとえば天体の運動を考えるばあいには私たちはそういう発想をする。たとえば宇宙には「見えない物質」である「ダークマター」が大量にあると言われる。もちろん「見えない物質」が直接に観測されるわけがない。観測できる物質だけで銀河の運動を説明しようとすると、どうしても観測結果と計算結果とが一致しないことから、観測できない物質つまり「ダークマター」があって、それがある力(具体的には重力)を及ぼしていることを推定しているのである。また、彗星が太陽の周囲を回る周期が、太陽や惑星の重力の影響では説明できない変化を起こす「永年加速」という現象がある。それによって、直接に観測されていないにしても彗星の表面から物質が噴き出ているとかそういうことを推定する。
また、素粒子のレベルでも私たちはそうやって見えない物質の存在を推定してきた。ニュートリノという非常に検出しにくい粒子がある。これの存在が推定されたのは、やはり、原子核のβ崩壊(電子を放出して電荷がひとつ増える現象。陽電子を放出して電荷がひとつ減るというβプラス崩壊というのもある)での電子の運動を妨げるものが何かあるにちがいないということからの推定であった。ニュートリノが発見されたのはその推定の後である(正確には、β崩壊では反ニュートリノが、βプラス崩壊ではニュートリノが出る)。
物理学的に自動車の「運動の状態が変化していない」と見えるのは、車庫や路上で止まっているときを除けば、氷の上でスリップしてハンドルもブレーキも利かなくなった状態かもしれない。あぶない話である。というより、人間にとって、自分の道具である自動車の「運動の状態」を自在に変化させることができないというのは、やはり不安なことなのだ。自分の「道具」が自分の「力」の範囲の外に行ってしまうのは、実際に危険だという以上に、心理的にも恐怖を感じさせるものなのである。
ところで、「運動の状態」が変化しないというのは「速度」が変化しないことで、しかも運動の「方向」が変化したら「速度」は変化するというのであれば、地球が太陽の周囲を回る運動も電子が原子核の周囲を回る運動もすべてつねに「方向」を変えているじゃないか、だから地球も電子も「速度」はつねに変化しているししたがって「運動の状態」は変化しているじゃないか、だからそれはつねに「力」を受けているのであって、「力」を受けずに運動をつづけるという意味での「慣性」はあてはまらないじゃないか、ということを思いついた人はえらいと思うぞ。貴方こそ「科学」を考える者の鑑だ。
地球と太陽とか、原子核と電子とかの二つの物体が引き合って運動しているばあい、その二つの物体はつねに「力」を及ぼし合い、その「運動の状態」を変化させあっている。ただ、その「運動の状態」の変化のしかたそのものが完全に予測でき、それを単純な数式で表現することができる(電子の場合は量子論が絡んでくるので「単純な数式」とはいかなくなるが)。それは、二つの物体が衝突しないで力を及ぼしあっているかぎり、円・楕円・放物線・双曲線(ばあいによっては直線)のいずれかの軌道をたどることになる。その二つの物体以外から「力」が働かないかぎり、その二つの物体の運動がその単純な数式で表現されたコースをはずれることはありえない。ほかから「力」を受けないかぎりその軌道を逸れないという意味で、地球は慣性で太陽の周囲を回転しつづけているし、電子は慣性で原子核の周囲を回転しつづけていると表現することができるのだ。
ところでここからちょっと余談である。等速円運動では、ある方向に中心からいちばん遠く離れたところで、中心からそれとは反対の方向にいちばん強く引かれるという関係で物体の運動がつづいていく。この運動を真横から見た軌跡を時間軸にプロットしたのが「サインカーブ」である。
じつは、私たちが耳にする音は、すべてサインカーブを組み合わせたものとして表現することができる。あの音叉のぷーんという単純な音がほぼサインカーブの音そのものである。テレビとかラジオとかの時報も同じである。その音叉の音から、ギター・バイオリン・クラリネットなどの楽器の音色、工事現場の雑音にいたるまで、すべて、いろいろな波長や振幅のサインカーブを組み合わせたものとして表現できるのだ。等速円運動の軌跡は、私たちにとってわりあい身近な存在なのである。
ちなみに、私たちは等速直線運動から等速円運動を学んでいくが、近代物理学の基本法則は円運動および楕円運動について比較的早い時期に発見されている。惑星の運動を記述したケプラーの法則がそれである。そのケプラーの法則を説明する手段としてニュートンは万有引力という考えかたを思いついたのだときいたことがある。また、近代の数学を飛躍的に発展させたのは、すべての関数を三角関数を合成したものとして表現することができるというフーリエ変換の考えかたであった。三角関数というのは直角三角形に関する関数のように教わるが、上に書いたように、それは等速円運動を記述する方法として、また円と直線の関係を表現する手段としての面も持っている。等速円運動というのは物理学にとってわりと重要なものなのだ。
なお、「運動」に関係して「力」を及ぼしあう物体が三つ以上あるときには、特殊なばあいを除いてその運動の軌跡を単純な数式で表現することはできなくなる。これを三体問題という。
ところで、電子はかならずしも原子核のまわりを回りつづけているわけではないぞ。自由電子というのが原子核に束縛されないで飛び回っているから私たちは電気を使って生活することができるし電子メールも送れるししたがってこうしてホームページも見られるのだ。
ところで「特殊」相対性理論のほうが簡単で、「一般」相対性理論のほうがむずかしい理論である。つまり「一般」的なことを説明しようとすると説明しなければならない対象が増えてしまってそれだけ理論が複雑になるのだ。しかし、「大正デモクラシー」の時代にアインシュタインが来日したときには、とうぜん「特殊」より「一般」のほうが「一般向け」で簡単なんだろうと思った人が多くて一般相対性理論についての講演のほうに聴衆がたくさん入ったというような話を読んだことがある。
非常に単純にいえば、光・電気・磁気を伝える媒体として想定された「エーテル」の存在を確認するために行われたマイケルソン−モーレーの実験は、当初、地球の公転運動を利用して行われた。つまりそれは等速運動を対象として行われた。その実験結果を説明する論理として考え出されたのが特殊相対性理論であった。特殊相対性理論は等速運動する物体と空間を前提として作られたものである。一般相対性理論は、その運動について加速度を考慮に入れた理論であり、非ユークリッド幾何学を前提とするため、難解なものになっている。
「トンデモ」理論がよく攻撃対象にするのは特殊相対性理論のほうのようだが、特殊相対性理論の正しさはほとんど疑われることはない。なぜなら、それはユダヤの陰謀とかニャントロ星人の陰謀とかじゃなくて、特殊相対性理論を否定するような実験結果が出ないからである――「トンデモ」の人たちの思いこみ以外には。一般相対性理論についても、理論と食い違った結果が出たという話は寡聞にして聞かないが、証拠となる実験・観測結果も十分に多くはないと正統物理学者も考えているということだろう。
相対性理論が感覚的に受け入れがたいのは、それがユダヤ人学者によって提唱された学説であるということにのみよるのではない(「ユダヤ人の提唱した邪説」という偏見は発表当時からあったが)。相対性理論が説く「観測者の視点によって観測対象の空間がちがったものになる」という考えが受け入れにくいものだからである。
近代社会では「空間は均質である」ということが前提である。それは、物理学でいう空間についてだけの話ではない。近代の世界では、貴族の住む世界と庶民の住む世界、靴職人の世界と鍛冶職人の世界、キリスト教世界とイスラム教世界のあいだに本質的なちがいがあってはならないとされるのである――原理的には。貴族も庶民も、靴職人も鍛冶職人も、キリスト教徒もイスラム教徒(ムスリム)も質的に同じ一つの空間を分け合わなければならない。キリスト教徒とイスラム教徒で、その空間についての解釈や信念はちがってもかまわないが、空間自体がちがってくるというのでは近代社会は困るのである。もちろん、ニュートン物理学も同様の「だれから見ても同じ空間」を前提としている。
ところが、相対性理論は、そもそも視点によって空間がちがう、絶対的に同じ空間・同じ時間というのはありえないと説くわけである。しかも、特殊相対性理論のばあい、(『トンデモ本の逆襲』にも出てきたが)相対的な二つの運動のうち、どちらが「静止している」かということを絶対的に決めることはできないとする。これは私たちの日常生活での実感と大きく異なる。走っている自動車のほうが静止していて、まわりの世界のぜんぶが動いているというような世界観に私たちはかんたんになじめるだろうか――と書いたら、『機動警察パトレイバー2』(劇場版)で荒川がそんなことを言っていましたね。その場面を思い起こせば、『うる星やつら2―ビューティフル・ドリーマー―』で無邪気が「時間と空間」について語る場面も思い出しそうなものであるが、ここのページは「押井論」ではないのでこれぐらいにとどめることとしよう。
※押井論に興味のある人は押井論のページ(第二回)
ともかく、その特殊相対性理論の「正しさ」は実験的に確かめられている。
もちろん、だからといって特殊相対性理論が「絶対に」正しいなどということはあり得ない。特殊相対性理論より単純で、特殊相対性理論より物理現象を普遍的に説明できるエーテル理論が提出されれば、正統物理学の研究者は特殊相対性理論を喜んで捨て去るはずである。そういう理論が発見されれば、何十年後かに出版される「トンデモ本」シリーズには「まだ相対性理論を信じている人たち」の名まえが、現在のコンノケンイチ氏や矢追純一氏の名まえのかわりに並ぶことになるかも知れない。
ここで私がつねに「近代民主主義」と断っていることに注意していただきたい。
学校などで民主主義について習うときに、それは英語のデモクラシーの翻訳であり、語源は古代ギリシア語の「民衆の支配」であると教わるかも知れない。それはそれで正しい。ただし、古代の民主主義と近代民主主義は大きく異なる制度である。たとえば古代の民主主義では選挙は民主主義の制度ではないとされる。選挙は「すぐれた者」を選ぶ儀式である。そして「すぐれた者の支配」は貴族制であって民主制ではないのだ。だから、近代民主主義の基本である代議制だって、古典古代の観点からすると、それは民主主義の制度ではなく、貴族制の制度なのだ。
ちなみに、貴族制というのは、本来の意味においては、特定の家柄の世襲貴族によって支配される政治のことではない。アリストクラシーというのはあくまで「すぐれた者の支配」であって、その「すぐれた者」が世襲されるということは本来の要件ではない。むしろ政治上の「エリート主義」といったほうがいいかも知れない。近代民主主義は、その「代表」を選出する権利をその政体に属する全「民衆」に委ねているという一点を除いて、古典古代でいう貴族制の属性を強く持っているのである。
もちろん、それが、前近代世界では、現実において閉じた貴族社会を構成し、世襲制による政権の寡占が進められる傾向があった。これは世界のどこでもそうだっただろう。
余談になるが、大国で大文明国家と自他ともに認めた国で、そのような世襲的な貴族社会が近代以前に崩壊していた稀な例は中国である。ここは、1000年足らず前に貴族社会が崩壊し、家族制度と、試験によって官吏を登用するという形態の独特の官僚制が支配することとなった。
ちなみに、中国の前近代の小説として名高いもののうち、『三国演義』(いわゆる正史でない『三国志』)はその貴族社会が成立するちょっと前を描いた作品である。『三国演義』に出てくる袁紹なんか貴族みたいなもんだし、司馬懿(司馬仲達)も曹操なんか問題にならないぐらいの名門の出身だ。しかし曹操にしても劉備(玄徳)にしても諸葛孔明にしても貴族ではない(孫権は地方の名門)。他方、『水滸伝』はその崩壊後を舞台とした作品である。『水滸伝』の敵役である蔡京・童貫・高イ求(漢字がないの。ごめんね)・楊晋戈(同前。でも楊晋戈はあんまり出番がない)らはみんな世襲貴族ではない。『水滸伝』の最初に出てくる高イ求のやくざな出世話は創作であるが、この連中はいずれも官僚や宦官・軍人として一代限りの栄誉を得た人たちであり、それだけに一族のなかにはその成功者にたかって出世しようという強引な者もたくさんいたのである。
なお、「独裁」ということばが「民主主義」の対極概念として語られることが多い。だが、独裁は単純に民主主義の否定であると考えてはならない。独裁――dictatorshipとは、その政治社会の本来のあり方を守るために、臨時的にある個人または集団が集中的に権力を行使することをいう。つまり「民主主義を守るための独裁」というものも原理的にはあり得るのだ。
旧来、言われてきたように、近代的なものが前近代的な共同体秩序を一挙に崩壊させたと見るのは正しくない。前近代的な共同体は資本主義社会に対応して自らを変質させ、かならずしも崩壊にいたらなかった例が多いであろう。日本のばあいも、産業化に伴う近代化は明治期から始まっているが、「村」共同体はそれによって崩壊したわけではなかったし、家族共同体は明治の近代化のなかで再編され強化されている(たとえば「夫婦同姓」という習慣は明治に西・中欧に倣ってはじめられたものだ)。西欧の政治理論などに登場する「個人」とは、近代に入ってから長いあいだ、家長である成年男子のことであるという了解があった。「個人主義」とはそういうものだったのである。ルソーの社会契約論に対するフェミニズムからの批判も、その種の個人を前提とする理論であったことをひとつの根拠とするものである。
逆に前近代共同体的な組織原理が、近代的な組織に入りこんでいくことも多かった。「日本的経営」などはそうした一例であろう。「儒教近代化論」の提唱も、前近代共同体的な組織原理が近代的な組織に及ぼした影響を肯定的に評価してみようという発想の現れなのであろうが、私はどちらかというと「儒教近代化論」には懐疑的な見解のほうに説得力を感じる(溝口雄三『方法としての中国』などを参照してください)。このあたりは専門的な知識のある方のご教示を待ちたい。
なお、「都市化」を近代政治の本質として重視する政治理論を打ち立てたのは、戦後日本を代表する政治学者の一人である松下圭一氏である。
「先進国」ということばについて非常な嫌悪を感じる方がいらっしゃるかも知れない。
「先進国」の何が「先進」なんだ? いわゆる「後進国」の人びとのほうが心も豊かだし自然もたくさん残っているしその自然を食い荒らしているのは「先進国」と称する大国じゃないか。あれはたんに工業が「進んで」いるだけのバカ国家群ではないか。だからあんな国を「先進国」と呼ぶべきではない、あれはたんなる「工業先進国」だ!
――私はかつて不用意に「先進国」ということばを使ったとき、そう批判されたことがある。
私は、そういう問題提起は正当であると思う。だが、「先進国」ということばを「工業先進国」と置き換えることでそうした問題が解消されるとは考えていない。私は、ここまでの議論でおわかりだと思うが、社会の産業化とその社会の政治・経済・文化のあり方は密接に関連していると考える者である。それはたしかに工業の発展を示す一部の数字だけが「豊か」なようで政治的に非常に「後進」的な制度を採っている国家や政治共同体というのもないわけではない。しかしそれは一部の例外であるし、そういう国家は普通は「先進国」のなかに数えられていない。
要は、「先進」ということばにプラスのイメージのみを持つことが問題なのである。もちろん「先進」ということばにはプラスのイメージがあり、「後進」と呼ばれるよりは「先進」と呼ばれたほうがずっと気もちがいい。しかし、それは、べつだん私個人の価値観なのではない。産業化・都市化された社会、政治的民主主義、自由主義による市場経済とそれによる経済成長、そして都市型文化の成熟――そうしたものをよいと認める価値観は、先進国・後進国問わずこの世界では普遍的であろうと考える。むしろそんな都市型文明はダメだなどと主張するのは「先進国」のほうであって、「後進国」にはそうした都市型文明への道を「先進国」が閉ざそうとすることに根強い抵抗感があったりもするのだ。そういう価値観自体の持つ問題点も十分に意識したうえで「先進国」という表現を使うべきだと私は考えている。
なお、もちろん、たとえば経済学や国際経済や「世界システム」などの研究家が、工業的指標によってのみ国家を考えようとするときに「先進国」という一般的な呼びかたを避けて「工業先進国」という用語を使うのは、学問的な厳密性の問題であるから、ここの議論にはあてはまらない。
大衆化された社会は政治的民主主義を持っているというと、文化大革命の中国なんかどう考えるかという問題が出て来る。文化大革命はたしかに大衆化された社会を前提にして起こった事件である。しかし、ここで私は「政治的民主主義」ということばを代議政体を持った近代民主主義に限定して使っているので、中国はその例からははずれる。
しかし、文化大革命は、推進者たちの意識においては「大民主」なのである。文化大革命のような事件が起こったことは、一面では中国社会が持つ歴史的制約によるものであったろう。中国では、貴族制が早い時期に崩壊し、大家族制で束ねられていたとはいえほぼ均質な個人によって構成されていた。しかもその均質な個人のすべてに政治にかかわるチャンスを保証するような社会制度(科挙)ができていた。その社会制度が人びとの生きかたのスタイルにも深い影響を与えていた社会である――「受験」がすくなくとも明代には一般社会でも強い関心を持たれていた制度であることは、小説の題材に「受験」の話がたびたび登場することからもうかがえる(当時の「小説」は大衆娯楽で、知識人にしかわからない文章語――私たちのいう「漢文」ではなく口語で書かれていた)。そのことと、中国でこのような大衆運動が起こったことは関係がるだろうと私個人は考えている。だがなにぶん専門に研究したわけではないのでなんとも言えない。
しかし、他方、文化大革命が「西洋的」な政治の原理と無関係に起こったものと考えるのもまちがっていると思う。プロレタリアートの階級独裁という全体主義的な考えかたが均質化された大衆社会をある方向に強く方向づけたときに、あの「十年の動乱」のような自体が起こったのである。
近年、文化大革命が、毛沢東のユニークな――エキセントリックなと表現したいならそれでもいいが――人格によって引き起こされた事件であるように描かれることが多くなっているように思う。だが、あのような事件を他人事と考えてはならないと私は思う。
『水戸黄門』という作品はこういう例によく引かれるのでちょっと気の毒である。ある意味で、このシリーズがそれだけ大衆的な人気を誇っている証左であろう。私はこういうヒハンでもってこのドラマにケチをつけようというわけではないので念のため。だいたい、現在の日本の通俗物語(時代劇はもとより小説・アニメ・ドラマまで含めて)で、そういう構成をどこかでとっていない作品のほうが少数派なのではあるまいか。
ちなみに、虐げられた民衆の苦しみを、名裁判官(日本でいえば大岡越前とか)や名を伏せた有名人が救うという形態の話は、中国の前近代の名裁判官物語なんかに見られるものである。民衆の苦しみを救ってくれる名裁判官を「青天」と呼んだりした。また文革の話になるが、文革に疲れた民衆は、そのころ政治的に復活を果たした搶ャ平氏を「攝ツ天」と呼んだというような話をきいたことがある。
なお、念のため書いておくと、特殊相対性理論の証明手段はマイケルソン−モーレーの実験だけではない。宇宙船が光速の90パーセントの速度ですれ違ったとしたらその相対速度は光速の1.8倍になるかどうかは、現実に光速の90パーセントで飛んでいる宇宙船というものに乗った者はだれもいないのだからそれはわからない。だが、光速に近い速度で飛んでいる粒子にとっての時間が、そうでない者から見て遅くなっていることは、粒子崩壊のようすを観察すれば判定できる。
なお、「トンデモ」な人のなかには、目に見えないほど小さな、しかも光速なんて速度でぶっ飛んでいる粒子の崩壊なんか検証できるわけはないというようなことを言う人もいそうだが、残念ながらそれはできる。粒子自体は目に見えないほど小さくても、その痕跡をはっきり残させる装置(霧箱とか泡箱とかいうもの)を使えば粒子の運動の軌跡だって写真に撮ることができるのである。
そういう実験を経ても、特殊相対性理論に反しないばかりかそれの予測するとおりの結果しか出ないのである
ところで、この現象は、その粒子の側から見れば、私たちの側の粒子の崩壊(その他水晶発振の周期でもなんでも)が異様に長く見えるはずである。紗南ちゃんが「ゆっくり話をしたい」と言われて「はーーなーーしーーでーーすーーかーーぁーー???」と聞き返した、それとおんなじような感じである――なんて話はアニメ版の『こどものおもちゃ』を見ていない人にはあんまりわからないと思う。それはともかく、こちらから見れば粒子の時間が長くなっているように見えるのなら、粒子のほうから見ればこちらの時間が異様に短くなっていそうなものだ。ところがそれがどちらから相手を見ても相手の時間が長く見える。だから、どちらの時計を絶対的な基準にとることもできない。相対性理論の「相対性」とはそういう意味なのである。
そりゃ私だって小学生のころは「UFO」探しに熱中して、宇宙人が夜更けに自分の家に出現して自分をさらっていくんじゃないかと恐ろしく感じて夜を過ごしたことだってある。でもけっきょくほかに説明のつかないような「UFO」に出会うことはなかったし、「宇宙人」にも会うこともなかった(もちろん宇宙の一部である地球の人類にはたくさん会ったけど)。
ただ、このころ、「自分の身近に、自分のまったく知らないもの――出会ったとしても対処のしようのないものが出現するかもしれない」とけっこうしんけんに考えていたときの「感じかた」のようなものは現在の私のなかにも残っているような気がする。
いまだにアニメには「UFOを実際に見た子がいじめられて……」という物語がよく見られる。これもすぐれたものと大したことのないものがあって、『ミンキーモモ』の「あの話」なんかは非常によくできた作であると思う。でも、実際に、いまでも小学生が小学校で「UFOを見た」と言ったら仲間はずれにされていじめられるのかな? すくなくとも大人の出版界ではあんまりいじめられているようには見えないが。
ところで、「ユダヤ陰謀」論の諸先生が、現実にユダヤ人がかかわっている大きな問題であるパレスチナ和平について積極的に反イスラエルの立場から(もちろん反アラブの立場でも)発言しておられるのを聞いたことがないのは、私の見聞が狭小なせいなのだろうか?