魔法使いTai!
* 魔法辞典 *
第一話・CDシングル 編
【板野サーカス】
板野一郎が「板野サーカス」をいかにして開発したかという話は岡田斗司夫氏の『オタク学入門』に出ているそうだ。岡田氏のホームページにはWWFのページからリンクしているぞ。
【アニメ版『セーラームーン』】
この作品の特徴のひとつは、この物語の舞台となっている街のモデルが特定できるということである。東京都港区の麻布十番である。これまでの広い意味での魔法少女系のアニメでは、作中では舞台となる都市名が確定されていてもその地理がよくわからなかったり、逆にじっさいにはある実在の都市をモデルにした都市が舞台であってもそのことが表に出されていなかったりした。「戦う魔法少女」ものという、いわば現実離れした物語の舞台として、逆にモデルまで特定できる街を――それも東京都心に近い住宅街をはっきりと設定したことは、このシリーズに独特の雰囲気を生むに至っている。
『姫ちゃんのリボン』で舞台としての風立市を詳細に描くことは物語上の要請に応えたものだ。『姫ちゃん』にとっては、東京都下の街に住む中学生の物語であることは欠くことのできない要素なのだから。しかし、『セーラームーン』のばあい、舞台をまったく架空の都市にしてしまっても、「戦う魔法少女」ものとしては差し支えないはずである。それを、東京都心に近い住宅街という舞台を導入すること――極端にいえばそれだけで、ほかの「戦う魔法少女」ものとは異なる「この作品らしさ」を演出しているのである
【ナルト】
東京都にお住まいの佐藤順二くんからの質問への沙絵の答えによると、ナルトは沙絵の大好物なのだそうである。CD『魔法使いTai! Special 2』の「ラジオDJ編〜中富七香のまき」を聴いてください。
【ユニフォーム】
Uni-が「ひとつの」、formが「かたち」だから、どの服も同じかたちをしていないと「ユニフォーム」ではない。ところが、このユニフォームはメンバーごとにそれぞれかたちがちがっている。色も沙絵が赤、七香が黄色、茜が青で、男性二人は黒である。その意味では「ユニフォーム」ということばからははずれるのであるが。
【マジカルプリンセス】
アニメオリジナルの変身後のチャチャのこと。第一話ではじめて変身した後、どろしーの召喚したドラゴンに何のためらいもなく攻撃を加えて撃退した。
服装をふくめたマジカルプリンセスのキャラクターについては鈴谷了氏に専論がある。『WWF13』(1995年)の「おまけ本」に収録。同誌改定時に本誌に収録の予定
【攻殻機動隊】
音響は『魔法使いTai!』と同じ若林和弘さんである。
ところで順調にいけば『魔法使いTai!』第二巻は『攻殻』のLDと同日の発売なんだよなぁ。ああ頭痛い〜!!
【オムニバスプロモーション】
斯波重治をはじめ、浅梨なおこ・千葉繁・若林和弘(本作品の音響監督)を擁する音響プロダクションである。斯波重治は『となりのトトロ』などの宮崎駿作品、『機動警察パトレイバー』までの多くの押井守監督・演出作品その他で活躍し、浅梨なおこは『魔女の宅急便』以後の宮崎駿作品や『機動警察パトレイバー2』で音響監督を務めている。また、私たちの注目している「金曜6時枠」では、『姫ちゃんのリボン』が若林和弘、『こどものおもちゃ』(現在放映中)が浅梨なおこの作品である。
『紅い眼鏡』などでは製作も担当している。
【おたく的視線】
もちろん、これと逆に「なんだ××(その先行作品)のパロディーか」と、「オリジナリティーがない」などという理屈をつけてバカにしたり真剣にヒハンしたりするという行動に出る者もある。ただ、このばあいも、そのヒハンの裏には、「オレにはこれが先行作品のパロディーだとわかるんだぞ、しかもそれがわかって喜ぶほどのレベルよりはるかに高いレベルにいるからべつにそれがわかって喜んだりしないんだぞ」という気もちがほの見えていることが多い。
そもそも、何かを鑑賞するという行為はそれに似た先行するものを知っていることを前提として成立している。もちろんそのすべてを知ることは不可能だから、それぞれの鑑賞者によって得手不得手や得意分野ができてくるのは避けられない。しかし先行作品についての知識を持っていることはじつは自慢にも誇りにもならない。文学批評でも専門的な研究でも、先行者が示した知識について「知らない」ことは恥になるけれど、だれもが知りうるように公開されているものを「知っている」ことは何の自慢にもならないのである。たんに先行作品について「知っている」だけで他より優位に立てるという発想が許されているのは、「おたく」の棲息空間ぐらいなものなのである。
このあたりのことは、WWFの近刊『WWF15』収録のへーげる奥田氏の文章「えらそうな人びと」をご参照願いたい。
【静かな脅威】(そこに存在するだけの巨大な「侵略者」)
たとえば、『うる星やつら 2 ビューティフル・ドリーマー』では、ハリヤーのミサイルが向けられているすぐこちら側で、この作品のキャラクターたちがそれまでと変わらぬメシをめぐる愚劇を繰り広げている姿が描かれている。「脅威」としてとつぜん生活のなかに闖入してきたものは、最初はその存在だけではげしく排撃されるが、それで排除できないとなると「とりあえず何もしないからいいや」という存在になってくる。私たちの生活は、つねにいくつものその種の「静かな脅威」に囲まれているはずである。
【H.G.ウェルズの火星人】
『宇宙戦争』に出てくるタコみたいな宇宙人。火星人のタコ型の機械にはヨーダスとハイデヤンスが座乗していると言われる(→『赤ずきんチャチャ』23話)。
『宇宙戦争』によると、人間は便利な機械が発明されて肉体を動かす必要が少なくなると肉体の機能が退化する。が、例外がある。脳と、脳に情報を送る目と、脳からの指令を伝達する手段としての手の指である。このタコ型火星人は、脳と、目と、指だけで生きるようになった人類の姿なのだ。
『宇宙戦争』には、そのタコ型火星人の世界に、下等動物として二足歩行する動物がいるらしいという設定が出てくる。「アタマを使う人間」とそうでない人間が進化のすえにべつの動物になってしまうという将来像だ。
また、『タイム・マシン』も、やはり人類の進化のシミュレーションの試みとして読むことができる――こちらは多分に社会主義的理論だが。
H.G.ウェルズの科学観や、それにもとづく政治論については、ジョージ・オーウェルが興味深い批評を書いている。『水晶の精神』(平凡社ライブラリー)収録の「ウェルズ・ヒトラー・世界国家」参照。
【『ダロス』】
世界で最初のオリジナルビデオアニメと言われる。押井守とその師匠である鳥海永行の監督作品である。企画は『ガンダム』的なものをということだったようだが、押井守は階級闘争のドキュメンタリー作品のようなものを作りたかったらしい。その意図は貫徹されたとはいえないが、たんなるカッコイイ独立戦争の話にも終わっていない。また、独立戦争そのものではなく、「独立戦争に至る過程」を描いているという点も斬新かも知れない。
【目】(目を合わせずに会話する)
キャラクターどうしが目を合わせずに会話したり、目を合わせていてもじつは自分の内部で話が空回りしていたりという描写がある一方で、ほんとうは生きていない者の「目」を相手にしてしゃべっているような描写もある。マジックワンドの「目」である。七香はマジックワンドの「目」を眉をひそめて見たり斜めに見たりしながら「けっきょく沙絵のペースにはまっている」自分のことをしゃべるし、高倉は油壷に言い寄られてマジックワンドと並んで同じ目をしながら「気が散るんだってば」と迷惑そうに言っている。
ツリガネロボットの「目」といい、「目」というものはけっこうこの作品の鍵になるような気がする。
【困ったもんだ】
これもへーげる奥田氏の「偉そうな人々」(近刊『WWF15』)参照。
【『エヴァンゲリオン』最終回】
諸方面で議論を呼んだ最終回は、どうやらスケジュールの都合がつかなくなった苦肉の策というもののようだ。スケジュールを破綻させたことはけっして評価できることではない。ただ、この最終回への批判のなかには、ほんとうにちゃんとこの話を見て批評したのかどうかよくわからないものが少なからずあったように感じる。「わけがわからない」という批判は「わけをわかろう」とする姿勢で作品に接した者にのみ許されるものではないだろうか?
【某部員の個人的好み】
70年代後半にはゴダイゴのファンだった。「背伸びをしてFOLLOW YOU!」はのアレンジには79年頃のゴダイゴの作品を思わせるものがあるとうそぶいている。
80年代はキンクス、エルビス・コステロ、トッド・ラングレン、大滝詠一、はっぴいえんど、山下達郎などのファンだったと言われる。ビートルズ、ローリングストーンズは好きだがそんなに知っているわけではない。ただ、やたらとブートレッグ類を持っていることを自慢し「ビートルズのことを語れるのはオレだけだ」という態度をとるビートルズのファンや、たんにローリングストーンズを讃えるためにビートルズを貶すローリングストーンズのファンは、当時から嫌いだった――どこの世界にもいるものである、こういう手合いは。
【探偵小説】
かつて「探偵小説」と呼ばれたジャンルが「推理小説」と呼ばれるようになったのは、戦後になって「探偵」の「偵」の字が当用漢字からはずされたためだという話を読んだことがある(『刑事コロンボ』の昔のノベライズ版の付録だったかな?)がほんとうだろうか? 私は「探偵小説」という表現のほうが好きなのでそちらを使っている。
ワトソン役について、クリスティーには「どうせワトソン役は自惚れの強いアホなんだろう」という読者の思いこみを逆手にとった作品がある。
【おしり】
「いたぁい、おしりが二つに割れちゃったよぉ……あ゛、それは最初からか」。
これに似たセリフが『こどものおもちゃ』2話の紗南と羽山の会話にあったのを覚えているだろうか? この『こどちゃ』の2話を演出したのは桜井弘明さんで、『赤ずきんチャチャ』ではこのドラマの脚本を担当している山口宏さんと名コンビを組んでいた。
余談ながら、『チャチャ』といえば、沙絵役の小西寛子さんはなかなか「濁点」の才能があるようだ。
【精神的苦痛】
その精神的苦痛を、「思い出したくない個人的体験」の領域まであえて踏み込んで表現しようと試み、しかもそれを作品後半の眼目に持っていった作品に『新世紀エヴァンゲリオン』がある。その『エヴァンゲリオン』後半のメインライターの一人は、このCDスペシャルの脚本を担当している山口宏さんだった。
【バレンタイン】
近年の少女アニメのバレンタインネタで出色の出来だったのが『ナースエンジェルりりかSOS』の「花林が渡したチョコレート」だった。脚本は竹田祐一郎さん、演出は『チャチャ』や『こどちゃ』(『こどものおもちゃ』)でも活躍している桜井弘明さんである。
【内部での対話】
七香としゃべっているようでいて沙絵はその言うことをほんの一部分しかきいていない。
『新世紀エヴァンゲリオン』の16話・22話・23話の物語の中心をなしていたのも、メインキャラクター(16話はシンジ、22話はアスカ、23話はレイ)の「内部での対話」だった。もちろんこの三本はこのドラマの脚本家山口宏さんの作品である。
【空談】
ハイデッガーによれば、人間はその平均的な日常においては「存在」から目をそらせつづけている。これを「頽落」と呼ぶ。その指標をいいかげんにまとめると、
- 「空談」
- 「自分がどうあり得るか」という問題(「実存」)に少しも触れないむなしいおしゃべり。
- 「好奇心」
- 自分の「実存」と向き合うことを避けるためにどうでもいいことに注意を向けること。
- 「曖昧性」
- どうとでも論評しどうとでも結論できることについてあれこれ考えること。
となる。この「謎の訪問者編」の雰囲気になかなか似合うもの言いではないか。
【新横浜】
じつはWWFがこのホームページや『WWF』ナンバーを作成している策源地はこの新横浜にあるのだ。ふっふっふ。そのためか何か知らんが、ここんとこWWFナンバーの編集に対してはツリガネの攻撃が加えられているという話があるぞ。『WWF15』の印字品質が落ちたのもツリガネのあやしい攻撃のせいだ(ホントかっ?!)。