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【「温故知新」 本をめぐる雑談】

T.ヘイエルダール/水口志計夫 訳

コン・ティキ号探検記


(ちくま文庫、1996年)




 ※原書1948年。訳書初出1951年。原訳書1956年筑摩書房刊。改訂版。


 この探検記には私は少年時代にダイジェスト版で出会っている。たしか学研から出ていたヴェルヌの小説集の付録に「コンチキ号漂流記」というタイトルで載っていたのだ。そのときには、「コンチキ号」とは外人さんは船にトンチキな名まえをつけるものだと思った。この探検の出発地点であるペルーや目的地のポリネシアはもちろん、著者の故国であるノルウェーという国がどこにあるかすらぜんぜん知らないころの話だ。

 コン・ティキ号という名まえはトンチキな思いつきでつけた名まえではないらしい――ということを20年近く経ってから知った。ポリネシアの島々に住む民族の始祖とされる、白い肌を持った神の名まえがティキだという。また、インカ族の祖先がその大陸から追い出した白色人種の酋長の名がコン・ティキだという。この神またはいにしえの酋長の名をとって、ヘイエルダールはその筏にコン・ティキ号と名づけたわけである。

 著者のトール・ヘイエルダールは1914年生まれで、オスロ大学で動物学・地理学を専攻した。1937年、マルケサス群島のファツ・ヒヴァに行き(それがどこにあるのか私にはよくわからない)、妻とともに、一年間、原住民のあいだで暮らしたという。このとき、ヘイエルダールは、島のティキの石像と南米の石像が似ていることに気づいた。そのティキが島の住民の祖先を連れてきたという伝説から、この島の住民は南米から海を渡ってやってきたという学説を思いつき、それを論文にまとめた。

 だがその学説は学界からまったく相手にされなかった。それは、たんに、アメリカ大陸からポリネシアに人類が渡ることが不可能だと考えられていたからではなかった。著者の書いているところによると、人類学には「アメリカの人類学」と「ポリネシアの人類学」という別個のものがあって、その二つをごちゃまぜにした「ポリネシアとアメリカ」の人類学などというものはありえないという学問上の制度によって、著者の学説は斥けられたのだ。実験してみてアメリカからポリネシアに人間が渡ることは不可能だという事実が証明されたわけではなかった。「アメリカの人類学」と「ポリネシアの人類学」が学問的に別個のものだと考えられていたから、それを正当化するために「アメリカからポリネシアに人間が渡ることは不可能だ」という事実が証明もなしにでっち上げられたのである。

 南米の民族は舟を知らなかった、というところまでは事実らしい。それに対して、バルサ材の筏があった――これはスペイン人の記録にも出てくるらしい――と反論したヘイエルダールを、老研究者はバカにして言った。
 「そう、あなたはバルサ材の筏に乗って、ペルーから太平洋諸島へ旅行を試みることがおできになる」(28頁)

 ヘイエルダールはその挑戦を受けた。そして、バルサ材の筏でペルーからタヒチの近くまで航海することは可能であることを、ヘイエルダールはバルサ材の筏による航海で実証した。この筏が「コン・ティキ号」である。

 ヘイエルダールが生まれたのはヨーロッパでは第一次世界大戦が始まった年、太平洋に渡った1937年は盧溝橋事件を契機に日中全面戦争が始まった年である。さて、戦争、南米、文化人類学という三題話ですぐに思いつくのがレヴィ‐ストロースの『悲しき熱帯』だ。南米といっても、レヴィ‐ストロースの『悲しき熱帯』のおもな舞台がアンデス山脈の東側であるのに対してヘイエルダールはその西側だ。また、ヘイエルダールはレヴィ‐ストロースとちがって哲学の面から注目されることはなかった。しかし、内海や地中海ではなく大洋を超える民族移動の可能性を実証したという点で、ヘイエルダールの功績はけっして小さくはない。戦争の時代は、人類学が世界の見かたを変えるような発展を示した時代でもあったのだ。

 その理由はいろいろ考えられる。

 二回の世界大戦はヨーロッパ中心主義を打ち砕いた。ほかならぬヨーロッパ人のなかから非ヨーロッパ世界をたんなる文明に遅れた世界として見るのではない世界観の確立をめざす動きが出はじめた。もちろんそこにはヨーロッパ人自身がヨーロッパ中心の世界観を否定しようとすることからくる偏りやひずみはあったであろう。しかしそれをいうなら日本人がヨーロッパ中心主義を否定しようとしてもやはり日本人がやることに特有の偏りやひずみは生じるものだし、たぶん中国人がやってもマレー人がやってもそれは同じである。それはともかく、レヴィ‐ストロースもヘイエルダールもその時代の知的な流れに乗ってそれぞれの目的を追究したのだ。

 もちろん人類学はヨーロッパ文明の相対化に一役買っただけではない。逆に、ナチス・ドイツは人種的偏見を正当化するために人類学の知見を活用した。それは人類学の分野に留まらず、インド‐ヨーロッパ語族の起源という言語学的な問題まで巻きこんで展開した。しかし、これも、ドイツ民族がすぐれていることを証明するためにインドまで引き合いに出すということは、これもひとつのヨーロッパ文明の相対化の所産と言えなくもない。戦争の時代の人類学・考古学・言語学といった学問は、西・中欧のヨーロッパ人の自分たちの文明への自信と不安と内省のなかで揺られながら醸されていったものだと言ってもいいかも知れない。

 しかしそれだけだろうか? ヘイエルダールとその探検隊の行動力を戦争のおかげだなどと言ったら戦争賛美とか軍隊賛美とか言われるかも知れない。また、ヘイエルダールの探検隊が、装備品や食糧に関してアメリカの軍の援助を受け、筏の組み立てから出帆までをペルー海軍の援助を受けているのも事実だ。そのことはヘイエルダール自身がこの探検記に書いている。だが、探検隊には、ナチス・ドイツの原爆製造を阻止するために活動していてゲシュタポに包囲され、殺されそうになって命がけで脱出した無線技師と、ドイツの戦艦ティルピッツの停泊所の近くに身をひそめて10か月も戦艦の情報を送りつづけた無線技師とが参加している。それはけっして上官の命令に従い殺戮を繰り返すたんなる官僚的軍人ではない。もちろん軍の統制に服しているとはいえ、自分が忠誠を捧げる対象を明確に持ち、苛酷な状況のもとで自分の判断によって考え、行動することに全力を尽くした軍人である。そういう軍人として身につけた能力や積極性、それに気質がヘイエルダールの探検を裏で支えていたというのも事実のように私には思えるのだ。

 また、ヘイエルダールは、「アメリカの人類学」と「ポリネシアの人類学」をまったく別個の学問と考えるアカデミズムの固定観念の挑戦を受けて立ったと私は書いた。ヘイエルダールの相談を受けた友人は、ヘイエルダールに同情して言った。
 「彼らは専門家だ。全部そうだ。そして植物学から考古学に至るあらゆる特殊分野の中に割りこむ、一つの研究の方法があるということを信じないんだ。彼らは、もっと集中的に深淵を掘りかえして細かいことを探し出すことができるように、自分自身の範囲を限定している。現代の研究は、どの専門分野もそれ自体の穴を掘らなければならない、と要求している」(29頁)

 日本で丸山真男が「タコツボ型」として批判した学問の型が定着しつつあったのは、じつは日本に限ったことではなかったのだ。そして、そうした「タコツボ型」学問に抗してアカデミズムの牙城に挑む無謀な知識人はヨーロッパにもいたのである(「スカンジナビア」は「ヨーロッパ」ではないというまぜっ返しはこのさい取り上げない)。

 ほんらい、学問的に「人間は筏でアメリカ大陸からポリネシアに行くことはできない」ということは、人間が南アメリカ大陸からポリネシアに筏で渡航できるかどうかということを正当に検討したのちにはじめて言えることである。ところが、ヘイエルダールをバカにした老研究者の発想はちがっている。「アメリカの人類学」と「ポリネシアの人類学」は別物であって、「アメリカとポリネシアの人類学」はありえないという「学問の制度」が先にある。そして「なぜなら人間はアメリカからポリネシアに行くことはできない」という「事実」が根拠として実証抜きであとからつけ加えられたのである。それはどこまでもタコツボ化した「学問の制度」の都合が生み出した「事実」だった。

 ヘイエルダールの試みは、実証に基づく学問という姿を見せながら、じっさいには、そのときの学問の制度からはみ出たものを実証によらずに排斥しようという、アカデミズムの生み出した「学問の制度」の挑戦に応え、それを打ち破る試みだったのである。

 ドイツ語で学問のことをヴィッセンシャフトという。まえにここのページでとりあげた『哲学に何ができるか』で、廣松渉氏が、ヴィッセンが「知識」でシャフトが「総合」だという意味だ発言していた(→『哲学に何ができるか』について)。だとすると学問は「知識の総合」または「総合知」なのである。ところが、学問というと細分化された断片の追跡に全生命を賭けるものだという認識ばかりが一般的になってしまった。もちろん学問のある局面で細分化された断片に全生命を賭けるような態度が必要とされることはある。しかしそれはあくまで「必要とされることがある」のであってそれが学問のすべてではないのだ。だが「タコツボ」化した学問では、学問とは細分化された断片を追究するものだという口実のもとに知的怠惰がはびこる。それに対して、ヘイエルダールの筏航海は、その本来の「学問」を取り戻す試みであった、ということもできる。

 じっさい、筏に乗って海に出てみると、タコツボ化した学問なんかに出る幕はないのである。それは荒々しい自然のまえでは学問とか知とかいうものがまったく無力になるということではない。逆である。そこでは航海術から動物学や天文学・地理学、無線技術や気象に関する知識など、学問の枠を超えたあらゆる種類の「知」の「総合」が必要となる。筏の上で著者は専門的な文献上の知識とサメのあしらいかたについての知識とのあいだになんの格差をつけることもできない状況に直面するのだ。もちろん、道楽で筏に乗っているわけではない以上、自分たちが証明したいと思っている古代の人類の事跡とそれらの知識やら思考の成果やらを結びつけて考えることも怠ることはできない。巨大な波をどう乗り越えるか、風と海流のあいだでどうやってバランスをとって舵をとり、単純な筏を操作するのか――そのひとつひとつの課題が、梃子の原理からスペイン人の残した文献までのあらゆる知識を一瞬のうちに綜合して考えることを要求してくる。そこでは、人間の体力だけではなく、「総合知」の力そのものが試されるのである。

 余談ではあるが、このあたりの気分はジュール・ヴェルヌの『神秘の島』その他の冒険ものの作品と共通するものを感じる。ヴェルヌ作品の付録にこの探検記のダイジェスト版を入れた、私が小学生のころに出会った本の編集者も同じことを感じていたのかも知れない。

 この航海の末にコン・ティキ号はタヒチの東の島に到着することに成功する。そこでヘイエルダールは書く。
 「わたしの人類学説は、コン・ティキ遠征隊の成功だけでは、かならずしも証明はされなかった。われわれが証明したことは、南米のバルサの筏が現代の科学者にこれまで知られていなかった諸性能を持っているということと、太平洋諸島はペルーから出た先史時代の筏の到達範囲内に位置しているということであった」(345頁)

 ここでもヘイエルダールは徹底して「学問」的である。


 ところで、「島国根性」ということばがある。日本は四方を海で隔てられた島国だ、だから開かれた世界を知らない閉鎖的な国民性ができてしまったのだ、という議論だ。

 しかしこれはおかしな論理である。周囲を海で囲まれているということは、その海を通じて多くの地域と繋がる可能性を持っているということでもあるはずだ。江戸時代を通じた海禁政策と、日本の近代化の過程で海を生活の場としている人びとの生活様式が文化の周辺に追いやられていったことで、日本の国民が「海の民」の気質や伝統を失っていった。閉鎖性を象徴するものとして「島国根性」が言われるのはそういう歴史的な過程の所産であったように思える。日本が海禁政策をとる以前は、日本人の一部は――「倭人」と呼ぶべきかも知れないが――中華帝国を海上から脅かした有力な民族集団の中核だったのである。

 現在の中華人民共和国の領域にわたる地域に住んでいたトルコ民族がアジア大陸を横切って現在のトルコにまで達したというような民族移動を私たちは自然なものとして信じている。それは中国からトルコまでが陸続きだからだ。ゲルマン民族の移動にしても同様である。ヴァンダル族はジブラルタルを越えてアフリカに渡り、アフリカから地中海北岸を脅かしたが、それにしてもそこは古代から船の交通が発達した地中海であった。

 それにくらべると「海上の民族移動」ということはなかなか考えにくい。鉄で船を造る技術もなく蒸気機関もないのに、人間が大量に海上を移動することなどできないと考えてしまうからであろう。ちなみに、鉄で竜骨を造ることができるまでは、自然木の成長する高さの限界が船の長さの限界だった。竜骨は途中で継ぎ合わせることができないからである。

 また「生産力と生産関係」についての「マルクス主義」的な歴史観も関係しているかも知れない。生産力がある程度まで発展しなければ生産関係は変化せず、生産関係の変化がなければ技術の発展もない、したがって航海技術も発展しなかったはずだという思いこみである。もちろんそうした要素はあるだろうし、そうした分野で実証的な技術史の研究が進んでいることも承知している。

 だが、ヘイエルダールの試みは、鋼鉄船と蒸気機関がなければ――すくなくとも外洋航海に耐える強度の船体を持った大型帆船がなければ――大量の海上の民族移動は不可能だという前提が、科学技術文明を恃んだ近代人の思いこみにすぎないことを証明した。このことは、先年の三内丸山遺跡の発掘の成果が、縄文時代の人びとの生活に関して言われていたことの少なくない部分がやはり思いこみにすぎないものだったことを証明したのを想起させる。

 近代人が鋼鉄船も機関もなしに大規模な海上での民族移動ができたはずがないと考えるとき、そこには、近代人の海上移動の方法が唯一の海上移動の方法であるという思いこみが働く。たしかに近代人の文明生活を保ったままで海上を移動するには汽船かすくなくとも大型帆船が必要だろう。しかし、古代人が、古代人自身の宗教や死生観を持って(海を移動している途中にサメに食われて死ぬことをどう考えるか?――とか)、古代の文明を携えて海を渡るには、大型帆船や汽船はとくに必要なかった、という可能性を考えに入れる必要がある。

 じつは、私がこの『コン・ティキ号探検記』を手にとったのは、網野善彦氏が、古代にすでに日本人がチリに渡っていた可能性があるというようなことを書いていたのを思い出したからである。以前、南米の古代文明の出土品に漢字が書かれていたというような話を読んだことがあって、なんかまたトンデモな話だと思っていたが、あんがいそうではないのかも知れない。本書の解説を書いている門田修氏によると、そもそも南米で使われていたコン・ティキ号型の筏の起源は中国や台湾にたどれるという説もあるそうである。

 じっさい、この冒険航海をやったのが日本人なら、ヘイエルダールが楽しんだこの航海をもっと楽しく過ごすことができたかも知れないと思わないでもない。ヘイエルダールはイカの味を「イセエビと消ゴムをいっしょにしたような味」と表現し、「一番下等な献立」ときめつけている。消しゴムはないと思うぞ――消しゴム食ったことないからよくわからないけど。ともかく、コン・ティキ号のクルーが海上で食っているメニューというと、イカ・カニ・カツオ・マグロである。そういったものを食うのに抵抗のない文化とそれを食う技術を持った民族であれば、ヘイエルダールにとって冒険航海であったものを「冒険」ですらない航海として受け入れていた蓋然性は高くなるのではないだろうか。

 沈んだ大陸なんかなくったって、海の上の民族の歴史を学問的に考えてみることは十分に刺激的なのである。


 評者:清瀬 六朗




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