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【「処士横議」バックナンバー】


もっとまっすぐに もっとリアルに

―1997年10月19日―


 最近、ある日本史の先生とお話しする機会があった。

 いま30歳代半ばのその方は、もう何本も研究論文を発表しておられ、また、史料復刊などにも尽力されている、すぐれた研究者である。

 その先生がいま何を教えていらっしゃるのかということをうかがった。

 いま取り組んでいるのは、歴史を専門としない学生たちに日本の近代史を教えるという授業なのだそうである。
 きみたちが外国(アジアの近隣諸国)に行ったときに、きみたちは行かないところに石碑がたっているかも知れない。それにはここで日本軍が住民を虐殺したと書いてあるかも知れない。そんなときに、その外国のひとが自分たちをどう見ているのか、ということを理解するために、きみたちはぜひとも日本の近代史を知ってほしい。
 そういう前置きで、つづけて、その先生はつぎのような講義をなさるのだそうだ。
 明治維新はいまからほぼ130年前の事件だ。この時代を区切ってみよう。「明治」は約80年間つづいた〔つまり「戦前」はすべて「明治」と見なすのである――清瀬註〕。そのあいだになにがあったかを考えてみろ。征台の役、壬午事変、甲申事変、日清戦争、日露戦争、第一次大戦、シベリア出兵、山東出兵、満洲事変、日中戦争、アジア太平洋戦争(註)と、10年ごとに戦争をやっているではないか。きみたちはいま20歳前後だ。ということは、きみたちは「明治」に生まれていたら、もう二度は戦争を経験していたはずなのだ。そう考えると、戦後に一度も戦争がないというのは特別なことなんだ。

 ※「アジア太平洋戦争」――いわゆる太平洋戦争は「太平洋」だけで戦われたものではない。その戦争が「アジア」でも行われたことを重視して「アジア太平洋戦争」と呼ぶべきだという立場から「太平洋戦争」を言い直した表現である。私は使わないがこの表現自体には反対しない。ただ、この用語を使うのであれば、「アジア」での戦争は1931年には始まっているのであるから、いわゆる「十五年戦争」全般を「アジア太平洋戦争」と呼ぶほうが妥当ではないだろうか?

 専門の歴史家の方というのは、ずいぶんご立派な授業をなさるものだと思った。

 ちなみに、その先生は、いわゆる「自由主義史観」にも、それに反対する立場にも与しないで、双方に批判を持つ立場なのだそうである。


 さて、「明治」(=戦前 なのだそうだ)の人びとがほぼ10年おきに戦争に遭遇していたのはたしかであるし、「明治」の国家が10年おきに戦争を体験していたのも事実である。しかし、「明治」の人びとが10年おきに戦争を体験していたというのは、もし第二次大戦を「体験」したというのと同じ意味でいうのならそれはうそである。

 この先生の挙げられたいくつかの戦争で、国民的規模で戦争を体験したのは日清戦争・日露戦争・日中戦争以後の戦争の三つである。「征台の役」、壬午事変、甲申事変、第一次大戦、シベリア出兵、山東出兵(第一〜第三次)は、外国の人びとと日本人出征将兵の双方に悲惨な体験をもたらしたものではあるけれど、軍事行動の規模から言えば、軍隊の一部が出動した戦争にすぎない。満洲事変ですら、当時の日本では一部の軍隊が出動したというぐらいにしか考えられていなかった。当時の世論の関心は、満洲事変もさることながら、民政党内閣下で進行した不況をいかにたてなおすかに集中していたのである。

 他方、戦後はたしかに「平和憲法」があるおかげかそれともその当時の国際政治のおかげか知らないが、日本は直接に参戦することはなかった。しかし、朝鮮戦争やベトナム戦争では日本は米軍(「国連軍」を含む)の行動の拠点となっていたのも事実である。ベトナム戦争に参戦はしなかったが、ベトナム戦争が日本社会に与えた影響は小さくない。1980年代以後の感覚で1970年代以前を同じように「平和」な時代と捉えることはまちがいである。

 たしかに、1945年8月を境に「軍部」が政治に影響力を失ったことは日本史上の重大事件である。

 しかし、戦前でも、軍部と政府の文民部門との関係は一様ではなかった。

 明治から大正にかけて活躍した山県有朋は、陸軍暴走の基礎を作った人物のように言われる。一面ではそれは事実である。しかし、山県がリアリズムの目で国際政治を見ることができた政治家であるのも事実であり、山県の影響力のもとでは陸軍が日本国の政治の支配を離れて暴走するなどということは起こらなかった。そりゃまあ、陸軍が暴走して満洲で戦争するのは悪で(それは悪にちがいない)、陸軍が政府の統制下で満洲で戦争するのはかまわない、ということにはならないけど。

 その後、その山県らの強権政治への妥協と抵抗のくりかえしのなかで政党政治が確立し、政友会が政権担当能力のある政党になった。政治にかかわる文民のなかでも、選挙で国民から選出されるもっとも文民らしい部門である。選挙権も拡大され、男子普通選挙も導入された。ところが、その男子普通選挙の実現と同じころ、その政友会でこんどは陸軍出身の田中義一が総裁となり、田中・犬養両総裁の時代には、政友会は陸軍の中国大陸での強硬策を一生懸命にバックアップする政党になっていった。

 戦後は「軍部」は消滅した。1930年代から問題にされてきた統帥権独立の制度もなくなり、軍部大臣が現役武官でなければならないとされた制度は廃止されて政党員が防衛庁長官をつとめる制度ができた。しかし、戦争にかかわる政策がなくなったわけではない。保守政党の内閣は、軽軍備・日米安保体制という防衛・軍事政策の作成に強くかかわっていったのである。

 戦前は戦争と侵略と虐殺の暗黒時代で、戦後は輝かしい奇跡的な平和な時代――なんてとても単純に分けて考えられるものではないのである。戦争が起こされた論理もその過程も、日清戦争・日露戦争・いわゆる十五年戦争ではまったく異なっているし、それと朝鮮戦争・ベトナム戦争も異なっている。それぞれの時代に、戦争がどのように起こされ、平和がどのように実現されたかは、それぞれの時代の国内政治と国際政治の条件のもとで評価しなければ意味がない。

 ――と、しろうと歴史家は考えるのであるが、歴史の専門家の方はどうやらそうは考えないらしい。


 あるいは、山県がどうした、政友会がこうした、吉田茂がああした、などという「専門的」な話は専門家が理解していればいい、日本国民は、日本が戦前・戦中にアジア諸国に対して非常に問題のあることを行ったのだということをまず知っておかなければならない、という反論があるかも知れない。

 日本国民がアジア諸国に対して実際に何を行ったかを知っておくべきだということについては私は反対しない。まったくそのとおりである。それは、たとえ、アジアの西洋列強からの解放という「大義」を肯定的に評価するとしても、やはり知っているべきことだと思う。あえて言うなら、「アジア解放」の「大義」を評価するなら、それがどうして現実には失敗に終わったのかをより深く知っておく必要があるのではないかと私は思うのだ。

 では、日本国民は、それさえ知っていればいいのか?

 山県がどうした、政友会がこうした、吉田茂がああした、などということは知らなくていいのか?

 外国に――ことに近隣のアジア諸国に――行ったときに、日本人が過去にそこでどんな残虐行為をしたのかに思いを致すことができさえすればいいのか?

 そんなことはないのではないか。

 とりあえず話を近代史にかぎるとしよう。近代の歴史とは、国際政治が与える厳しい条件のなかで、国民や、国家の指導者や、国家指導者以外に国民に影響力を持つ人びと(文学者や美術家、いわゆる知識人や宗教人)がどういう対応をしてきたのかということの連続である。

 これは日本に限らない。イギリスでもドイツでも「トルコ」でも中国でも同じである。アメリカ合衆国は、自立可能な大陸で極端に優勢な国家であったこともあって、比較的国際政治の制約を受けなかった。それでも、孤立主義の優勢だった時代にも国際政治と無縁にやってきたわけではない。何よりラテンアメリカ諸国にはアメリカ合衆国の存在自体が大きな制約を課した。

 国際政治への対応は一部の政治家だけの問題ではない。明治初期のような「国家」存立の危機のときには、国家が国際政治に対応するためにとった政策の多くが国民の生活に跳ね返った。国民もだまってそれに屈従していたわけではない。たしかに地主・富農や旧士族などが中心となった運動で、全国民のものとは言えないが、自由民権運動も発生した。

 明治について「国際政治」を持ち出すと、あるいは、「国際政治を言いわけに使って明治日本の対外侵略を肯定するのか!」という反論が出るかも知れない。私はそういうことを言いたいのではない。ロシアの満洲南下がいかに脅威であったとしても、それは日本が大韓帝国を併合して植民地にしたのが正当であるという理由にはならないと思う。

 だが、日本は、明治維新以来、対外戦争を「侵略戦争」として戦ってきたというような見方は、ロシアの脅威に対抗するために朝鮮を植民地化したのは正当だというのと同様に説得力に欠ける。たしかに台湾出兵や征韓論に見られるような対外膨張体質が明治初期からなかったわけではない。ましてそれは政府首脳が持っていた対外観であることを軽視してはならない。

 しかし、同時に、明治の日本にとって、イギリスやロシアやフランスが潜在的な強敵であったのと同様に、中国(大清帝国)も十分に大国であり、脅威だったのである。実際、朝鮮では日本は中国の軍事力の前に苦杯をなめているし、海軍力だけをくらべれば甲午戦争(日清戦争)当時には中国のほうがずっと優勢だった。

 「天は人の上に人をつくらず人の下に人をつくらず」などと書いた(アメリカ独立宣言がネタだと言われる)福沢諭吉が、「脱亜論」を書いてアジアの悪友を謝絶するなどと悪態をつき、日清戦争は文明の義戦だと大いに燃えたなどという話は、そうした当時の国際情勢と対外認識を考えに入れたときにはじめて正当に評価することができる。『福翁自伝』に「朝鮮人」を蔑視した表現があるのもよく知られているが、一方では福沢は朝鮮の「開化党」(と日本史では言ったはずだ。韓国・朝鮮史ではどう呼ぶのだろう?)の人たちを親身になって支援したのも事実なのである。

 近隣に軍事大国が存在し、しかもその大国がすぐ隣の国を「属国」とみなしてその内政をコントロールしようとしており、しかもそれに軍事的に対抗しようとして何度も失敗しているという国際情勢をどれだけ実感を伴うものとして私たちは理解できるだろうか? 満洲が領土的膨張傾向を強く持つ軍事専制国家の支配下に置かれているという情勢をどれだけ実感を伴うものとして私たちは理解できるだろうか?

 もちろんその情勢への回答が現実にそうであったように「戦争」しかなかったかということはなお考える余地があるかも知れない。しかし、そういう実感を理解するということを抜きにして、「明治日本は戦争と対外侵略を繰り返してきた悪い国家である」などという理解をすることに、はたして何の意味があるのだろうか?

 外国に行ったときに、日本人が何十年かまえにそこで専横をきわめ残虐なことをやった。そのことを意識することは国際人としての日本人には必要なことであろう。

 しかし、それで完璧な国際人になれるということではない。

 「国際人としての日本人」というのであれば、外国に行こうが行くまいが、国際社会と自分の国の関係を、何か既存の図式に安易に当てはめてしまうのではなく、できるかぎりリアルに捉えようとし、その世界観をもとに個人でそのときどきに正しい選択を行うことのできる日本人であることこそが必要なのではないか。

 そのためには、いや、そのためにこそ、近代日本の歴史から学ぶ必要は大いにある。そして、そういう日本人のためには、「明治日本は対外侵略と戦争ばかり繰り返してきたのだ」などという図式だけを与えることは何の役にも立たない。もちろんそれを教えるなというのではない。何度も書いているように、そのことを認識することは日本人にとっては必要なことだと思う。

 しかし、対外侵略史を伝授するだけでは不十分なのである。

 これも、「たまたま、最近」のことである。NHKの『視点・論点』という番組で、NHKの解説委員を長く務め、いまは杏林大学の先生であるらしい饗庭孝典さんがやはり歴史観の話をしていた。強調点はここに私が書いたのとは反対で、日本人が過去を知ることの重要さのほうに置かれていた。しかしもちろん私はこれに異論はない。そして、饗庭さんは、いま歴史認識が問題になっていること自体が、冷戦構造の崩壊という国際社会の環境の変化によるのだということを指摘していた。

 まったくそのとおりだと思う。

 そして、そのようなことが起こるからこそ、国際社会に対してリアルな把握ができるような日本人を「教育」するためにこそ近代史教育はあるべきだと思うのである。

 図式を与える日本近代史教育から、歴史を素材にして、安易に既存の図式にあてはめて考えるのではなくなるだけリアルに自律的に思考する態度と習慣を持つ日本人をつくるための日本近代史教育への転換はできないものであろうか?

 ――と、しろうと歴史家は考えるのであるが、歴史の専門家の方はどうやらそうは考えないらしい。

―― 終 ――




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