【「処士横議」バックナンバー】
沈黙から意味を読み取ること
―1997年8月17日―
あははっ。更新を怠ってまるまる5か月以上……。
ま、ま、まぁ……いろいろあったんだからいーじゃないですかぁ。
とくにさぁ、ここの乱にじゃなかったここの蘭にでもなかった、ここの欄に書きたいようなことはおおむね YOMINET に書いてしまうもんですから……「テツガク的空談」とかいうとこことネタが重なるんだよ、だからさぁ、ねぇ。
YOMINETはWWF HomePageからリンク→ こちらへ
「だからさぁ、ねぇ?」じゃないって? ――うーむ。ごもっとも。
厳重に反省することにして、お詫びはここまでとしよう(←ほんとに反省してるか?>自分)。
いやぁ、この4か月といったもの、風花ちゃんは出てくるし、紗南ちゃんはニューヨークなんか行っちゃうし(TV版ね)、『スレイヤーズNEXT』のフィリアはなんか好調だし、アメリアも好調だし、鈴木真仁の新しいアルバムは出たし、白鳥由里のミニアルバムも出たし、『WWF17』の編集は終わるし、『魔法使いTai!』は5巻めが出てついに七香七香七香七香七香ぁーっ……!!の話だし、アメリカ合衆国の探査機マーズパスファインダーは「独立記念日」の火星世界征服にこだわったために魔法少女プリティサミーに先を越されて火星表面でプリティ・コケティッシュ・ボンバーの痕跡を発見しているし(うそを書くな、うそを!)、都議選は首都のくせに都道府県議会選挙の最低投票率の記録を更新するという名誉を獲得するし、なんかたいへんであった。
「最低投票率」を更新したというのはとんでもない不名誉のように言われている。たしかに名誉ではない。だが「投票率」は高ければいいってものじゃない。候補者が日ごろから住民に恩を売りまくってその見返りに「かならず投票してくださいっ!!」って動員型の選挙を展開すれば投票率は上がるのである。だが、動員選挙が全面的に行われればそれが立派な民主主義かということにはならない。この低投票率は、首都で動員型選挙がそれだけ力を失っていることによると考えるのが妥当だいうぐらいに思っている。
ほんとに投票率を上げたければ、オーストラリアみたいに、投票を強制するという方法だってあるのである。
マスコミは「政治不信のあらわれ」の大合唱だ。しかし、国民の政治への関心を高め、投票率を上げるというのが報道の目的だとすれば、「政治不信のあらわれ」などという批判がその目的に応えていないことは一目魎ちゃんではなく瞭然である。
たしかに、ろくな議論もしない院内政治で消費税の5パーセントへの増税を決めた政治なんてものを「国民」がろくに信用していないのはたしかだ。でも、そういう政治を変えるために投票に行かないということは、「べつにあれはあれでほっといてもそんなにひどいことにはなんないんじゃない?」と思っているからではないのだろうか。
私たちは、「沈黙」から過剰な意味を読み取るなどという、いつのまにか身についてしまった悪習から脱却しなければならない。
いや、「沈黙」から意味を読み取ることは、世論の導き手としては当然の義務ではある。近代ジャーナリズムのひとつの役割は、それまで「沈黙」していると思われていた人びとがほんとうに「沈黙」しているわけではないことを、世に知らせることであった。教育が一般に開放されているわけではなく、だれでも文章を発表できるわけではない時代に、自分の考えを公の場で表現することができない人びとが、けっして「言いたいことを持っていない」わけではないことを発見することがジャーナリズムの大きな役割であったのはたしかだ。
だが、「沈黙」から意味を読み取る方法について、私たちはもっと自覚的でなければならないと思う。
私たちは、いくつかの事実に接したとき、それらの事実のあいだの関連を自分で最初から探り当てようとはしない。あらかじめ作られた「事実認識の様式」が社会には存在していて、それにあてはめてそれらの事実の関連を見出そうとする。
何年か前の地方選挙で「無党派」というのが注目された。そうすると「無党派が選挙の行方を左右する」という「事実認識の様式」ができあがる。それを「物語」と呼んでもいい。そして、それからあとの大きな選挙ではマスコミは「無党派の動向」にばかり注意を向ける。そして、今回、議席を伸ばしたのが自民党と共産党であったことを、「無党派層の既成政党への回帰」として説明しようとする。
まちがいではない。しかし、はたしてそれを説明の中心に据えてよいのだろうか? だいたい「既成政党」といっても、自民党と共産党をひとまとめにすることには、自民党からも共産党からも、双方の支持者からも相当に強い異論が出そうな気がするがいかがか?
この「無党派」を中心に据える現実認識の問題点はほかにもある。「無党派」というものをどう考えるかということについての議論が少しも深められないのである。「無党派は政治に無関心なのではない」などと報道されるがほんとうにそうか? 「政治に関心がある」といっても、政界をめぐるゴシップをただ聞くのが好きという政治への関心もあるし、選挙にはかならず投票に行くという関心の持ちかたもある。どの政治家とどの政治家がくっついたとか離れたとかいう関心を持っているからといって、現実の政治過程に参加しようという意志を持つとはかぎらない。逆に、選挙にかならず行くと言っても、自分の住む地域に橋をかけてくれた政治家にただ投票に行く、たとえそれが汚職の疑惑で全国から囂々たる非難を浴びている政治家であってもその政治家に投票する、という関心の持ちかたもある。また、アンケートした結果をもとに「関心がある」「関心がない」ということを決めて果たしてどの程度の妥当性があるのか。政治的な関心とは、自分が関心を持っていると思う人の頭数をカウントすることだろうか。それだったら、極端なことをいえば、たとえば文化大革命期の中国は世界史上まれに見る非常に政治的関心の高い社会だったはずだ。そういう結果が出てしまうような指標で現代の日本の選挙を批判したことになるのだろうか。日本を代表するいくつものジャーナリズムが、政治にたんに関心を持っているかいないかという機械的な分類を当てはめるだけで事態を「分析」したつもりになっていていいものなのか。
沈黙は何も語らない。何も語らないところには、何の「物語」も存在しない。いわば何も映っていないスクリーンのようなものだ。そして、何の「物語」も存在しないところこそ、私たち自身が持っている物語を投影して、その物語がいかにもきれいに映っているように錯覚してしまいがちな場所なのだ。何も映っていないスクリーンに映画を投影してたとえそれがおもしろかったとしても、面白かったのは投影したフィルムのなかみであり、けっしてスクリーンそのものを構成する素材が面白かったわけでもなんでもない。
映画を見るときにはそんなことはだれもが百も承知だ。ところが、ニュースを見るとき、新聞を読むときには、そのことはどうしても忘れがちになってしまう。
ニュースを見ているときには「ニュース」を見ているのであって、ニュースが扱っている事実を見ているわけではない。新聞を読んでいるときには「新聞」を読んでいるのであって、新聞が扱っている事実を読んでいるわけではない。いまいちど、そのことをたしかめてみてはどうかと思う。
―― 終 ――
・「珊瑚舎の部屋」へ戻る
・「処士横議」のページへ戻る