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【「処士横議」バックナンバー】


不滅の九曲

―1997年3月16日―


 ま、そんなわけで、いきなりベートーヴェンの交響曲全集なんか買ってきてしまって聴いているのである。

 私はこれまでクラシックに関しては完全無知に近い人間だった。いや、いまも、知識という点に関してはそうである。

 最大の、ではないが、大きな理由のひとつは、これまで住んでいた環境だった。壁の薄いアパートに住んでいると、ほんとに小さい音まで隣の部屋に漏れてしまう。自分の音が漏れるのは聞こえないけど隣のうるさいのがよく聞こえるのだからたぶんこちらのもけっこう筒抜けに近く漏れるのだろう。そういう場所で、レベル(音の大きさ)が小さいところから大きいところまで極端に変わるクラシックの曲はあんまり聴けなかった。もちろんクラシックがそういうものばかりでないことはたしかだが、いちど、そういう経験をすると億劫になってしまう。

 その私がいまベートーヴェンの交響曲全集(9曲ある。その掉尾を飾るのがいわゆる「第九」(「合唱」)である)をなんで聴いているかというと、そのきっかけは、去年の夏のコミックマーケットで手に入れたimaginary press inc.の登坂正男さんの同人誌『抽象企業・18補/『攻殻機動隊』音楽考 謡・左手・ニ短調』であった。

 この同人誌の表紙には、ごていねいにも「厳注」として「クラシック音楽マニア以外の方にはお薦めしかねます」と書いてある。本文にも「クラシック完全無知の人間」は「僕に言わせればそれは人間じゃない」などと書いてあったりして、私なんか思いきりその人間じゃないほうに属していたりするのだが、そこはそれ、『エヴァンゲリオン』の映画も無事――いやあんまり無事じゃないがともかく公開されたようだし、いいのではなかろうか(だから何だ?)。

 ともかく、この同人誌は、採譜はもちろん楽譜から音を起こすこともできないような、著者の指定による失格読者たる私が読んでもおもしろかったのである。『攻殻機動隊』という映画に、ラヴェルの『左手のためのピアノ協奏曲』とベートーヴェンの第9番交響曲(ニ短調)からアプローチそのものが斬新だった。切り口が斬新なだけで読んでみたら存外つまらなかったというものも多いけど、この登坂さんの論考は、自分にとってクラシックは「生きがい」「命の糧」であるという表現に何のウソ偽りもないことを論証して余りがたくさんあるすばらしいものであった。

 そこで、そのベートーヴェンの交響曲というのはいったいどんなものであろう、と思って、全集をぽちぽち買ってきている、というわけである。

 いや、じつは、6番「田園」だけは、高畑勲監督のアニメ映画『セロ弾きのゴーシュ』を見たときに、わけもわからず「日本人の指揮した田園」にこだわって朝比奈隆・大阪フィルハーモニー交響楽団のもの(92年録音)を買っていた。ちなみに「ゴーシュ」はラヴェルの「左手のための」というときの「左」である。クラシックファンの宮沢賢治がラヴェルを意識していたかどうかというと、「左手」は宮沢賢治の最晩年の作品だから、たぶんそんなことはないと思う。

 ただし、このときは、あんまり聴く気になれないで、6番交響曲も2〜3回通して聴いただけでほうり出してしまっていた。

 最初は、たんに、そのとき行ったレコード屋の棚のなかでいちばん安いという理由でアンセルメ指揮−スイスロマンド交響楽団のものを買った。それでぜんぶの交響曲をくりかえし聴いたあと、また根拠もなく日本人の演奏ということと、例によって安いという理由で岩城宏之−NHK交響楽団の1960年代録音のものを買ってきた。ちなみに、この岩城−N響全集が録音される少しまえに、そのN響を指揮するために来日したアンセルメが「日本のオーケストラは、まだまだですね。第一、楽器が安物です」などと批判していたことはあとからキングレコード(あの赤ずきんチャチャとかエヴァンゲリオンとか林原めぐみとかのCDを出しているカイシャ――まあどうでもいいが)の『海/アンセルメ・ドビュッシー名演集』の解説で知った。ちなみにいまのN響のことではないので念のため。

 こうやって同じ曲を別の指揮者・演奏者の演奏で聴くと、指揮者・演奏者によってその印象が大きくちがってくるという、クラシックに多少とも興味のある人ならとうぜん知っている事実にふと気づいてしまった。そういう聴きくらべをやってみたくなって、それで蛮勇を奮って、名まえだけは知っていたフルトヴェングラー指揮(第1〜第7番はウィーン、第8番はストックホルム、第9番はバイロイト)のものとカラヤンのベルリンフィルのものを買ってきた。いまは9番(「合唱」)と7番(ワーグナーが「舞踏の聖化」と呼んだ曲)をそれぞれの指揮者のものを順番に聴いている。まだもの好きで聴いているだけだから論評はもちろん感想すら書ける状況ではないが。

 で、私がクラシックをこれまで敬遠していたひとつの理由はさっき書いたとおりだが、しかし最大の理由はクラシックをどう鑑賞していいかぜんぜんわからなかったということである。

 中学校まではもちろん義務教育で音楽教育は受けてきた。高校のとき、音楽・美術・書道のどれかひとつを選択しろと言われて、音楽を選んだら、音楽は希望者が多いので希望者の少ない書道にしてくれないかと先生に言われて、ああそうですかとあっさりその言に従った。書がものにならなかったのはとうぜんであるが、音楽についての教養もろくすっぽないままいままで来てしまった。

 しかし、中学まででクラシックについて学校で習ったことってあんまりクラシックの理解の役に立ってない気がする。

 ことわっておくが、小学校のころから中学校まで、ほかの科目にはいろいろひどい教師がいたなか、音楽の先生はおおむねいい先生に当たってきたという点ではけっこう自信がある。他の科目の先生について「ひどい」というのは言い過ぎだが、教え方がじょうずでない・慣れていないというのはまだしも、熱心に本気で教えているようには見えない先生や、知識の伝授より道徳的説教や心構えについてのお諭しばかりを行うのが教師の役割だと心得ていらっしゃるらしい先生というのはいるものだ。そのなかで、音楽の先生は、自分が教える教科のことも熟知しているし、それを熱心に伝えようとしてくださった方が多い。このことには感謝している。不器用でハーモニカでもリコーダーでもろくに曲を演奏するということができなかった、しかも音痴の私が、それでも音楽が嫌いにならずにすんだのはこの先生たちのおかげである。

 それでもあんまりそのころのクラシックについて習った知識を思い出してもいま鑑賞の手がかりにならないように感じるのである。それにはやむを得ない事情もあるだろう。忍耐力のない、気が散りやすいガキども相手に、曲自体が短くないクラシックを聴かせることだけで至難の業だったろうと思う。

 けれども思い返してみると「情景を思い浮かべて聴きなさい」と言われたことぐらいしか思い出せない。いや、「ソナタ形式」とかも習ったはずなのだが、思い出せないのである。

 で、「情景を思い浮かべて」というのは、タイトルと曲に関係がつけられている標題音楽には有効な方法なのだろう。ドビュッシーの『海』を聴いて「海にこんな音楽で表現されるような表情があるんだ」と気づくことなんかけっこうたいせつなことかも知れない。

 でも、標題音楽でないものにはこれはぜんぜん有効な方法ではない。このことを強調しすぎると、かえって標題音楽以外の曲から生徒を遠ざけてしまうことになるんじゃないだろうか。それに、標題音楽でも、あまりに「題」にこだわることは、音楽の印象をむやみに矮小化してしまう危険があるように思う。

 たとえばベートーヴェンの第6番交響曲には「田園」というタイトルがついている。ちなみに、ベートーヴェンの交響曲でタイトル付で呼ばれるのは日本では「英雄」・「運命」・「田園」・「合唱」(または「合唱付」)の4曲あるが、作曲者自身でタイトルをつけたのはこの「田園」だけなのだそうである。あの全曲の出だしである第一楽章冒頭からすぐに連想される「運命」は、じつはベートーヴェンが弟子に語ったことばからついたタイトルで、日本でしか通用しないものだそうだ。

 で、「田園」は、曲だけではなく、楽章ひとつひとつにまでタイトルがつけられている。これもベートーヴェンの交響曲ではこの曲だけである。この曲には鳥の声などを描写した部分もある(カッコウがわかりやすい)。そういう部分や、「農夫たちの楽しい集い」(第三楽章)につづいて「雷雨、嵐」(第四楽章)がとつぜん襲ってくる部分などにばかり注目すると、この交響曲は「田園」の風景を巧みに描写しているように感じてしまうかも知れない。

 だが、この曲を作ったときに、ベートーヴェンは「田園」の音風景など聴くことはできなかったのだ(このことはロマン・ロランが指摘しているらしい)。ベートーヴェンは交響曲の5番・6番が作曲されたころにはほとんど聴力を失っていたはずだ。だから、この音を、たんなる「田園」の音風景の寄せ集めのように解するのはまちがいであると思う。そうではなく、6番交響曲で展開されているのは、ベートーヴェンが音の世界として再構成した「田園」風景なのである。

 もちろんどう聴こうとそんなのは聴く者の自由だ。だが、「ことばで語られたテーマ」先行、標題先行ではなく、もうすこし「形式」というものを重視してもいいんじゃないかと思う。

 さきほど「ヨハネによる福音書」のことを書いていて気づいたことがある。この福音書の構成である。最初に「洗礼者ヨハネ」という人物が登場してすぐに姿を消す。だが、そこで「洗礼者ヨハネ」が提示したテーマはそのまま全編を通じて流れつづける。イエス自身の「死と新生」の物語がこの「洗礼者ヨハネ」の物語のなかで最初に提示されて、そのふたたびの「死と新生」の体験である処刑と復活でこの「福音書」は終わる。そして、そのちょうど中盤に、イエス自身が、自分の愛している相手の「死と新生」にかかわるという物語の描写が含まれている。この物語は非常に巧妙に構成されている。この「巧妙な構成」はクラシック音楽の構成を思わせるものがあるように感じるのだ。

 何かを鑑賞するために、形式を重視するということは、形式にとらわれるということではない。むしろ、鑑賞の手段としてすぐに「テーマ」や「タイトル」に注意を向けるほうがよほど「形式」にとらわれているように感じる。形式を正当に検証することで、「テーマ」や「タイトル」にとらわれていては見えないものが見えてくることだってあるように私は思う。

 クラシック音楽の鑑賞法は、音楽以外の部分にも大きい影響を与えているように思える。ひとつの例は登坂さんの映画評論である。最近は押井守論があちこちでよく出ているが、それでも登坂さんの押井論がまったく価値を失っていないのはその方法があってのことであると思う。いや、言っちゃなんだが、相対的につまらない評が増えただけ登坂さんの評が傑出していることがよりよく認識できるようになった。

 ちょっと脇道に逸れるが、この登坂さんと、このページの管理者であるWWFの奥田氏の両方に押井本の原稿を依頼しておいて、その両方をみごとにボツにした有名な映画評論系の出版社がある。何を考えているのだと、心底、思う。その一事をもって日本の映画評論がいかに荒廃しているかの証拠だと言い切ってもかまわない。登坂さんの押井論のためなら発売が一か月ぐらい遅れてもかまわないと私なんかは思うぞ。まあ、いいけど。奥田氏のも登坂さんのもどうせ私たちはコミケで買うんだし、実質的被害は何もない。

 それだけではない。たとえば、昨年(1996年)に亡くなった丸山真男氏は、思想分析の用語に「通奏低音」などという用語を使っている。岩波新書から『フルトヴェングラー』という本が出たときにも、その対談者の一人として登場していた(出版の経緯は逆で、対談のほうが先なんだが)。その「戦後思想の巨星」の思想史の方法には、あきらかにクラシックの鑑賞は大きく影響を及ぼしているのだ。

 いや、おもしろいね、なんか知らんが――。

 それでは。




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