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空談寸評

 

『デ・ジ・キャラット』

 

TVアニメシリーズ、ブロッコリー/TBS、桜井弘明監督

 

 



 

へーげる奥田

 


 

 しまった、油断していたら前回から1年以上もたってしまっているではないか。これはイカン。ということで「空談寸評」まだまだ行くつもりです。21世紀もよろしく。

 さてその日は心がとても疲れていた。ちょうど有給休暇が大量に余っていたもので午後半休をとり、街をうろついていたのだ。これが1日休むと結局午後まで眠ってしまったりして不毛なのでセーシン的なケアには午後半休のほうがよいのだ。肉体的な疲労よりセーシン的な疲労の大きいときにはこれにかぎるのだ。カイシャという胃痛と論理と費用対効果と灰色の疲労とにまみれた世界から、ちょっとだけ撤退することもたまには「アリ」なのだ。

 公的な世界の住人からきわめて私的な世界に刹那的に逃避して、普段の勤務時間では決して入ることのできないとある系統の店に入った。中学生前後ぐらいのお子たちがたくさんいたりして、スーツ姿のまま入るとちょっと気まずい系統の店だ。店内をぐるぐる物色していると、BGMに聴いたことのある曲がかかっていることに気がついた。それは『PARTY NIGHT』という曲だった。スタパ齋藤流に表現すると、一瞬意識を失った私がはっと気づいた時、『デ・ジ・キャラット Vol.2』のDVDパッケージと1枚のレシートといくばくかのオツリを手にしていた。『PARTY NIGHT』がこの巻の挿入歌であることは、以前清瀬氏にDVD1〜2巻を借りて観た際にしっかりとチェックしていたのだった。何やってんだ俺。まあいいか、オトナだし。

 『デ・ジ・キャラット』の存在を知ったのは1998年ぐらいであったか、コミックマーケットの会場であった。なぜ頭にでっかい鈴だとかサイコロをつけているのだ、と私は友人に訊いた。その時かなり詳細な説明をうけたはずだったが、これが何か特定の作品などではなく、とあるゲーム専門店のマスコットキャラクターであることをきちんと理解したのはもう少し後のことである。

 TBSの深夜番組『ワンダフル』枠内で、『デ・ジ・キャラット』がアニメ化されたのは1999年11月のことであった。この枠は『すごいよ!! マサルさん』や『浦安鉄筋家族』などのアニメ化を実現した名物コーナーであったが、『デ・ジ・キャラット』のブッ飛び方も尋常ではなかった。

 そもそもTVシリーズのアニメで「物語」的にストーリーを展開する以上、そこには最低限の「論理」が不可欠である。経済でも、物語でも、およそ人と人との間で「価値の交換」を行う場合に重要になってくるのは「説得」という作業なのだ。財の供給者は、購入者が支払う対価が妥当であると納得するような品質を付与することで消費者を「説得」するし、「物語」の語り手は、その物語が個人的・主観的なものにとどまらず、間主観的な妥当性をもつように見る者を説得する必要にせまられる。それはギャグ作品でも例外ではない。

 しかしこの『デ・ジ・キャラット』の場合、少々事情が異なる。「形式」としては設定やストーリーラインなどを一応説明するそぶりを見せてはいるが、「意味」の位相においては実のところ「何ものをも説明していない」のだ。「でじこ」らは「デ・ジ・キャラット星」から女優を目指して秋葉原に降り立つ。なんで宇宙人が地球で女優をめざさなくてはならないのか。なんで秋葉原なのか。どうして猫のカブリモノをつけているのか。なぜ通行人など(とくに男)は主要登場人物を除いてみんな「指」なのか。しかし、本篇を観るわれわれにとって、これについての違和感は比較的少ない。本来なら作品を語る者はそれを観る者に対して何らかの合理的思考空間を構築してゆき、その思考空間の中でストーリーを展開するというプロセスを踏むのが一般的な方法なのだが、この『デ・ジ・キャラット』はそのプロセスを可能な限り簡略化、否、ほとんどやっつけ的説明で済ませてしまっている。そう、それで「済んで」しまっていることが重要なのだ。20世紀に蓄積された日本のコミックマーケット的文化について、その世界観を共有している者であれば、いやあるからこそ『デ・ジ・キャラット』の思考空間を受け入れることが比較的容易なのだ。テレビのニュース等で「でじこ」や「うさだ」のコスプレが放映されたとき、コメンテーターなどはみな「なんで頭にサイコロなんかつけているんですか」などと言っていたが、おそらくこれについて説明されている第9話を観せても彼らには理解不能であろう

 すなわち、『デ・ジ・キャラット』とは、それ自体が、日本の巨大なコミックマーケット的文化の蓄積を体現したシンボル的思考空間に展開するきわめて象徴的な作品なのである。彼らはオンエアの3分間という時間の中を、「意味」という合理的空間の論理障壁をいともたやすくぶち破りつつストーリーを展開する。しかし実は彼らは「ストーリー」などというアクティビティに依存しない。彼らキャラクター自身がある特定の価値体系の世界の象徴なのであるから、彼らはただ存在することで彼らの存在意義は満たされるのである。メイド服、ネコ耳、肉球手袋、台詞の語尾パターン、カブリモノ、目からビーム、etc.etc.……。彼らの活躍の場は、その背後にひろがる広大な文化的思考空間の中にこそあるのだ。

 『デ・ジ・キャラット』の魅力を語ることは難しい。それは多くの側面をもつ。愛くるしい「ぷちこ」の身もフタもない毒舌も、なんだか30代のオッサンみたいな「でじこ」の思考パターンも、20年ほどアナクロな「うさだ」の熱血も、語るにはそれぞれ多くの言葉を必要とするだろう。しかしまあわざわざ広角泡飛ばして彼らを語る必要もまたあるまい。われわれは彼らを受け入れ、楽しめばいいのだ。彼らはそれ自体が「文化体系」の象徴なのだから。

 余談だが、第一話のでじこのセリフ「いたいけな少女は、都会の寒空の下で、のたうちまわるんだにょ」というフレーズは秀逸というかシビレるというか、私にとってはベストである。はっ、これが「萌え」というやつなのか? でも「でじこ」より「うさだ」とか「ぷちこ」の方が好きなんですけど。ま、何はともあれ、「心にも栄養を」――私のその目的はとりあえずは満たされたようである。

 



2000/12



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