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『アヴァロン』をめぐる妄想

 

 

清瀬六朗



【注意!】

 ネタバレが多数あります。『アヴァロン』をまだご覧になっていない方、小説版『アヴァロン―灰色の貴婦人』をまだお読みになっていない方で、ネタバレを好まれない方は、この文章はお読みにならないほうがよいと思います。








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  「あの世」というテーマ

 

 押井監督をとらえているのは、もしかすると「あの世」というテーマではないだろうか。

 小説版『アヴァロン』を読み、それから映画『アヴァロン』を観て、ばくぜんと思ったのはそういうことだった。

 『アヴァロン』の世界には二つの「現実」が存在する。映画のアッシュが生きる「現実」と、ゲーム「アヴァロン」の最も難度の高いフィールド「クラスA」の彼方に存在する「現実」である。小説版の「俺」をめぐる構造もこれと同じだ。

 「クラスA」をクリアした者のみが到達できる「現実」は、「アヴァロン」というゲームの存在を前提にすれば、その「クラスA」を超える「クラスSA」というゲームの戦闘フィールドに過ぎない。マーフィーとアッシュが身をもって検証したのは、「クラスSA」の「現実」もゲームの一フィールドに過ぎないということだった。

 しかし、ここで逆に問いを立てることもできる。

 クラスSAの「現実」がゲームの一フィールドだとして、ならば、アッシュが暮らしていた「現実」の世界は、ほんとうに「現実」なのか?

 アッシュが暮らしていた「現実」は映像ではモノトーンに近い映像処理の施された、色彩感に欠ける世界であった。対して「クラスSA」の「現実」は色彩感にあふれた世界である。いま、この映画を観る私たちの感覚では、二つの「現実」の関係は、たぶん逆だ。アッシュの暮らしている「現実」こそが、けだるい夢の世界であり、えんえんと続く悪夢のような世界であり、そして「クラスSA」の「現実」が私たちの現実に見える。

 このような言いかたへの反論はもちろんあり得るだろう。とくにマーフィーの死をめぐる描写は、「クラスSA」の非「現実」性を印象づける。私たちの現実の世界では死体は消滅しない。したがって、「クラスSA」の「現実」はけっして私たちの現実と同じ意味での「現実」ではなく、あくまでゲームの一フィールドにすぎない。そのような反論はあり得るだろうと私は思う。

 しかし、戦闘や紛争が日常になっていない世界に住んでいるかぎり、私たちは日常の生活のなかで人間の死体に遭遇する機会は多くはない。そして、多くのばあい、人間の死体は葬儀を経て私たちの目から隠される。葬儀というのは、人の死が日常的なできごとではないことを納得し、納得させ、人の死を人の日常の現実世界から隔てるための儀式である。戦闘や紛争が日常になっていない私たちの世界で、「人は死ぬものだ」ということへの理解は、どの程度の「現実」味を伴っているだろうか。人の死をめぐる「現実」感という議論をするのであれば、戦闘や紛争が日常になっていない世界に生きている私たちの「現実」と、「クラスSA」の「現実」の違いは、そんなに大きなものではないということになると私は思う。

 「クラスSA」の人の死をめぐる「現実」感と私たちの感覚との違いよりは、「平和」な日本に住む私たちと、戦闘や紛争が日常になっている地域に現実に生きている人たちとのあいだの、「人は死ぬものだ」という「現実」に対する理解の違いのほうがはるかに大きいだろう。絶望的なほどに大きいだろう。劇場版『機動警察パトレイバー2』の柘植を突き動かした動機の一つは、そういうことではなかったのか。

 私は、「クラスSA」の「現実」感が私たちの現実と同じ完全な現実感だと言いたいわけではない。逆である。私たちが私たち自身の世界に持っている現実感も、じつは、「クラスSA」の「現実」感と同様に「現実」らしさに欠けているのではないかということである。

 アッシュの生きてきた「現実」と「クラスSA」の「現実」は、どちらも、「現実」らしさを持った世界であった。しかし同時にどこか「現実」らしさに欠けた「現実」でもある。そういう不完全な「現実」が、ゲーム「アヴァロン」をはさんで鏡像対称のようなかたちで存在している。

 「ゴースト」を追って到達できる「もう一つの現実」は、アッシュの生きてきた「現実」を「この世」とすれば、それは「あの世」ではないのか。こういう妄念は、小説版『アヴァロン』を読めばさらに確かなものに感じられるだろう。

 

 

 向かい合う二つの「現実」

 

 ある一つの媒体をあいだに置いて向かい合う「この世」と「あの世」というテーマは、私は『パトレイバー2』以来の押井監督の作品に共通するテーマの一つなのではないかと思う。

 『パトレイバー2』では、それは地下トンネルで接続された東京と埋め立て地として現れていた。東京では「現実」であるできごとが、埋め立て地からは「幻」に見える。しかし、東京からは「東南アジア某国」の戦場は、逆に「幻」に等しい存在としてすぐに忘れ去られてしまう。どちらもまぎれもない「現実」でありながら、「現実」感の欠けた二つの世界である。

 『攻殻機動隊』では、湿気が身体にどうしようもなくまとわりつく市街地と、湿気ではなく情報がまとわりついてくる電脳世界「情報の海」とが、やはり向かい合わせに存在した。「ゴースト」に導かれ、最高難度の戦闘をクリアすることで、草薙はアッシュや「俺」のように「あの世」に到達するのである。

 しかし、押井監督にとって、「現実」は、つねに懐疑の対象ではなかったか? べつに『パトレイバー2』に始まったことではなく、押井監督は「夢と現実」をテーマにした「テツガク」的な作風を一貫して誇ってきたのではないのか?

 この問いは正当であると私は思う。しかし、『うる星やつら 2 ビューティフル・ドリーマー』や『紅い眼鏡』の「現実」の扱いと、『パトレイバー2』以後の「現実」の扱いは、大きく異なっているように私には思える。『ビューティフル・ドリーマー』と『紅い眼鏡』の「現実」は重層的に重なり合ったものとして描写されていた。これらの作品の構造については詳しい論評がすでに公表されているので、ここでは詳しくは述べない。一方で、『パトレイバー2』以後の作品では、重層的な重なりよりも、二つの世界の向かい合いというテーマが中心に据えられ、その二つ以外の重層性は隠されるようになったように私は感じるのである。

 『押井守全仕事(増補改訂版)』には、スタジオジブリのプロデューサーの鈴木敏夫さんへのインタビューとアンケートが掲載されている。鈴木さんは、そのなかで押井守は自分の信じる世界を映画にしていないと押井守の近作を非難している。たしかにこの非難は押井守の近作の核心を衝く発言だと思う。

 しかしこれは無理な注文だ。どちらも「現実」らしくありながら、どこかで決定的な「現実」感に欠けた「この世」と「あの世」のどちらを「自分の信じる世界」と措定すればいいのだろう? それができないからこそ、押井監督は、その「一つの媒介を経て向かい合う二つの現実」というテーマで作品を執拗に作品を作りつづけているのではないか。

 しかも、それは、押井監督にとって、映画で描く世界がそのような構成を持っているというだけではすまないものを持っている。もし、映画で描く世界のなかに「この世」と「あの世」の向かい合いの構造があるというだけならば、それを描かないという選択が可能だ。そして、鈴木敏夫さんは、そういう可能性を強く確信しているのだろう。

 だが、映画に携わるかぎり、そこにはじつは誰もが超えることができない「この世」と「あの世」の障壁が存在する。それは、映画を作る側にも、映画を見る側にも、等しく存在している。そのことに押井監督は気づいてしまった。

 その「この世」と「あの世」を隔てる障壁とは、いったい何か?

 

 

 映画という虚構

 

 映画そのものである。

 映画を見る私たちは、時間という軸(「ゴースト」役少女の好きな日本語は「時間軸」なんだそうだ)を考慮に入れなければ、とりあえず三次元の世界で生活している。また、映画の向こうの世界は、やはりその時間軸を考慮に入れなければ三次元で構成されている。そういう約束ごとのもとに私たちは映画を見るし、映画も私たちにそう見せようという努力のもとに制作されてきた。

 しかし、そのあいだに存在するスクリーンは、まぎれもなく二次元である。スクリーンがたわんだり、テレビ放映されたときのブラウン管の画面が曲面になっていたりするかも知れないが、曲面でもとりあえず二次元である。そして、その二次元のスクリーンは、私たちがそのスクリーンの向こうの映画の世界に入りこむことを絶対的に拒否している。スクリーンのなかに引きこまれるような「感じ」はしても、映画ではそれは明らかに思いこみに過ぎない。

 もちろん、実写作品のばあいには、スクリーンに投影されている場面は、現実の三次元の世界で演じられたものであり、その演技している空間には入りこむことはできる。たとえば、ワルシャワやブロツワフやクラクフに『アヴァロン』の撮影が行われた現場を訪ねることはできる。けれども、たとえスタジオやロケ現場に行ったとしても、それは映画の制作現場や制作された現場に行ったのであって、映画の中の世界に行ったのではない。そして、それは、映画の制作現場に張り付いているスタッフにとってもまったく同じことだ。むしろ、映画の制作現場に張り付いているスタッフにとってこそ、自分の撮っている映画のなかに入りこむことはできないという絶望感は重大な意味を持つのではないか。とくに、その場の管理者である監督にとっては。

 映画のなかに描かれた世界は、映画に携わる人間にとって「あの世」である。押井監督はそういうきわめて正当で自然な妄想に取り憑かれ、十年来、その妄想との絶望的な――敗北必至の戦いをつづけているのではないかと思うのだ。

 

 

 映画にとっての奥行きの表現

 

 押井監督は、『パトレイバー2』のクライマックスの戦闘場面に海底トンネルを持ってきた。主人公たちは画面の手前から奥に向かって突撃する。映画ではないが、小説版『アヴァロン』でも、クライマックスの戦闘は鉄橋の突破である。「俺」が書き留めるというかたちをとったこの小説の視点は、もっぱら自ら鉄橋を奥に向かって突破している主人公に置かれている。

 どうしてこれらの押井作品で「手前‐奥」方向の隘路の突破がクライマックスに設定されるのだろうか。

 この問いへの答えを一義的に定めることにさほど意味があるとは思えない。隘路という設定自体、ゲームの難度を上げる効果的な方法だ。その難度の高さについては小説版『アヴァロン』に詳しく説明されている。また、何なら子宮から産道を通って外界に出ることのアナロジーと捉えたってかまわない。それに、出産だって「あの世」と「この世」の出会いの一つではある。胎児にとって、出産は、まさに、獲得できる経験値も膨大だがリセット不能の「フィールド」、すなわち現実への出現にほかならない。

 だが、私は、とりあえず、単純に、「手前‐奥」方向の描写が、二次元のスクリーンに描かれる映画にとって、最も困難な表現だからではないかと考えようと思う。

 スクリーン自体に現実と同じ奥行きを持たせられない以上、「現実」そのままにスクリーンに再現するのは不可能なのだ。カメラ(キャメラ)が捉えている現実は確かに奥行きを持っているにもかかわらず、映画として撮影されたとたんに、その奥行きは消え失せてしまう。だから、ほんとうに奥行きがあるように見せるためには、構図や焦点やレンズの特性を活用し、ばあいによっては書き割りやトリック撮影を駆使して「ごまかす」ほかに方法がない。「手前‐奥」方向の表現は、映画の虚構性が暴露されやすい表現であるとともに、虚構で「現実」らしく見せる余地がより大きい表現でもあるのだ。困難なフィールドに挑む「アヴァロン」のプレイヤーのように、押井監督もより困難な表現に挑んでいるのではないか。クリアできそうもない、敗北必至のフィールドだからこそ、あえてそれがクリアできる絶望的な可能性に賭けて映像表現を模索しているように私は思うのだ。それを突破すれば、映画の「クラスSA」への道が開けると信じようとしているかのように。

 押井監督は、映画『アヴァロン』のなかで、「手前‐奥」方向の描写の虚構性を、少なくとも二度、観客の前に暴露する。観客がアッシュとともにゲーム「アヴァロン」にはじめて入っていく場面と、観客がアッシュとともにゲーム「アヴァロン」から「クラスSA」へと移る直前の場面である。最初の場面では爆煙が、あとの場面では「ゴースト」が、数多くのレイヤーの重ね合わせで表現されていることを、カメラを回りこませることで表現している。そこから、この映像はゲームの映像なのだと安心するか、ではそのゲームの両側に存在する「現実」の映像は虚構ではないのかと疑いを抱くかは、観客の自由である。

 

 

 虚構としての色彩

 

 押井監督が『アヴァロン』を介して問い返す映画の虚構性はほかにもある。

 私は、だいぶ前に、「クラス・リアル」の色彩にあふれた映像のほうが「現実」感があると書いた。

 だが、それは自明のことだろうか?

 色彩にあふれた映像に「現実」感を感じるのは、じつは、私たちが普段から映画やテレビの映像で色彩にあふれた映像を見慣れているからにほかならない。世の映像がすべてモノクロームだったとしたら、色彩にあふれる映像ほど嘘っぽく見えるものはないはずである。

 一本の映画は、じつは単独では映画として存在できない。観客があらかじめ他の映画やテレビ番組などの他の映像作品を通して、映像の見かたについての暗黙の約束に習熟していなければ、それは映画にはならないのだ。画面の奥から手前に向かって走ってくる列車に轢かれるのではないかと思って観客が逃げ出してしまえばそれは映画にならない。また、画面の奥から手前に走ってきたはずの機関車が、画面の左側にはずれて見えなくなってしまったことについて「あの機関車はどこへ消えてしまったのだ?」などという疑念を観客が抱きつづけていたら、やはり映画にならない。そんな観客がいるかというと、現在はいないかも知れないが映画草創期にはちゃんと実在したのである。

 画面の奥から手前に走ってきた列車は、けっして映画館の客を轢くことはない。スクリーンの左にはみ出た機関車が見えなくなっても、そこに写っていた機関車は実在している。そのことを、私たちは、多くの映画・映像作品を見ることによって経験的に知る。映画の撮影現場で、カメラがこう置かれていて、どっちから列車が来て……という状況をいちいち思い起こして、理屈で理解しているのではない。経験的に知っているから、そういう理屈を思い起こしている余裕が持てるのだ。

 映画とは、過去に撮られ、公開された無数の映画・映像作品の映像表現(音響も含む)の記憶の存在があって、はじめて映画として成立しうるのだ。『攻殻機動隊』の「人形使い」は「私には膨大な数のネットが接続されている」と言う。同じように、一本の映画には膨大な数の他の映画が「接続」されているのだ。しかも、映画に「アクセス」した者がその事実に気づくとは限らない。

 押井守が岡田斗司夫の「オタク学」や庵野秀明監督のアニメ作品にまったく関心を示さないのは当然である。映像作品が、以前に存在した映像の引用によって成り立っていることなど、押井監督にとってははるか昔から自明の事実だからだ。押井監督の「フィールド」はそこではない。逆に、オタク学派は、そうやって自分たちの「フィールド」をいともかんたんに無視する押井守の態度に苛立ちを感じ、押井作品を評価することに積極的になれないのだろう。

 色彩も、映画史のある時点で映画に導入された虚構の一つである。

 色彩にあふれた映像は人間の目で見ている映像とは異なっている。人間の目が網膜に映ったものの輪郭を捉えられるのは、じつは微小な目の動きがその輪郭をなぞっているからだ。また、人間の網膜には錐体と桿体があり、それぞれで色彩と明暗の感度がちがう。人間の「見える」という機構は、映像をフィルムに焼き付けたり、ビットマップにデータとして割り付けたりしている機構とは違うのである。映画のフィルムは、そういう人間の目に見た感覚に近づくように加工されて、私たちの前に提示される。現実の世界は確かに彩りにあふれているが、映画の彩りは加工された虚構なのである。

 モノトーンに処理された世界に、唯一、総天然色の色彩を帯びて登場する「ゴースト」は、たしかに「現実」世界へのゲートだ。だが、その「現実」は、やはり念入りに加工された虚構なのである。

 ここに書いたような疑念は、すでに押井監督の一本前の実写映画『Talking Head』に表明されていた。『アヴァロン』は、『Talking Head』のヴァリエーションであり、一本の「映画論映画」と捉えることもできると私は思っている。

 

 

 東欧

 

 『アヴァロン』は「東欧」のポーランドで撮影されている。

 ちなみに『アヴァロン』のチラシには「中欧・ポーランド」と書いてある。地理的概念としてはこちらのほうが妥当だ。ポーランドは、ドイツやチェコ、スロバキア、ハンガリーなどとともに「中央ヨーロッパ」に属する。それが「東欧」とされてきたのは、冷戦時代の政治的地域区分による。資本主義・市場経済圏が「西欧」で、「共産圏」が「東欧」であり、「中欧」という区分の存在は政治的に許されなかったのである。

 なぜポーランドで撮影されているのか。日本では戦車が市街地で発砲する場面など撮影できない。だがイギリスやアイルランドでは予算が足りない。ポーランドは映画づくりの伝統を持っており、現地スタッフが充実している。だいたいそんな事情から決まったようである。

 しかし、『アヴァロン』では、そういう映画の外の事情のほかに、ポーランドがつい10年ほど前まで「東欧」だったということが意味を持ってくる。

 冷戦時代、ポーランドの首都ワルシャワは、「東側」の軍事同盟にその名を冠される年であった。ワルシャワ条約機構である。小説版には「ワルシャワ・パクト」ということばが頻繁に繰り返される。映画・小説版『アヴァロン』に登場するヘリコプター「ハインド」や対空自走砲「シルカ」、それにアッシュが装備しているドラグノフは、この東側軍事同盟の兵器であるらしい。私は兵器には疎いのでそれ以上のことはわからないけれども。

 だが、いま、政治的な意味での「東欧」は存在しない。「共産圏」も存在しない。かつての「東欧」・「共産圏」は、資本主義・市場経済圏に取りこまれてその一部になってしまった。

 けれどもそれが「現実」なのか?

 『アヴァロン』では、違う。共産主義が現実である。

 『アヴァロン』の世界は食料配給制に社会は支えられている。テクノロジーの発達で生産力が向上し、人間が働く必要がなくなって失業者があふれ、しかし人間には生きる権利が保障されている。欲望はもはや一般の人間を動かさない。人工食物が平等に配給される世界に一般の人間は甘んじている。そういう意味での共産主義社会である。小説版では「闇市」に「マーケット」というふりがながつけられている。この世界では市場経済は「闇」の存在である。プレイヤーの欲望をかき立てるゲーム「アヴァロン」も非合法の存在だ。

 しかも、ジョージ・オーウェルが描いた共産主義社会の息苦しさはここにはない。日暮れの時間に、路面電車が街角を横切っていくのを見送ったときの安らかさが、この共産主義社会を覆っている。闇市もゲーム「アヴァロン」も厳しい取り締まりにさらされている様子はない。欲望と自由にあふれた世界は、資本主義的思考に慣れた私たちが考えるようには『アヴァロン』の共産主義世界の住人を引きつけはしないのだ。それに引きつけられるのはあくまで一部の人間に過ぎず、欲望や自由への渇望が全住民に伝染する危険はない。それが『アヴァロン』の世界なのだ。

 いまもしアメリカ合衆国経済が「ハードランディング」を起こせば――などという不吉な想定はやめよう。そんなことにならないよう、よろしく頼みますぜ、グリーンスパン議長様。

 ともかく、私たちがいま思いこみ、もしかすると思いこまされているほど、資本主義と市場経済は盤石の存在ではない可能性もある。資本主義は人間を動かすのは富への欲望であるという人間観によって成り立っている。だが、その人間観が正しいという保証はじつはどこにもないのだ。映画を見る視線と同じである。「戦後」(第二次世界大戦後)の歴史、とくに冷戦崩壊期の情勢の推移を見た記憶から、そういう人間観がいまは通用しているらしいと推測し、それが正しいとして判断しているだけのことだ。富への欲望よりも怠惰な安逸への欲望が人間を動かすようになれば、あるいは動かさないようになれば、資本主義と市場経済を支える人間観は崩れる。

 だから、資本主義イデオロギーは、安逸と怠惰に対する十字軍をつねに動員していなければならないのだ。だが永遠に続く十字軍などありはしない。回を重ねるたびに声高に叫ばれるようになり、しかし回を重ねるたびに戦果が挙がらなくなるのが、十字軍の宿命であるらしい。

 「東欧」はもともと共産主義を目指した。どうしてそうなったかという事情は問わないことにしよう。ともかく、だからこそ、ハインドやシルカやドラグノフを使った撮影が可能だった。そして、それは将来はまた共産主義に戻るかも知れない。やっぱり、共産主義こそが現実であって、資本主義は一時の夢に過ぎないのかも知れない。「資本主義」という虚構をはさんで鏡のように向かい合う「共産主義」の「現実」という構造が、『アヴァロン』には描かれている。そう考えてみてはどうだろうか。

 

 

 「司教」階級の存在

 

 妄想が逸脱したついでに、試みにこんな疑問を抱いてみてはどうだろう。

 『アヴァロン』の世界はアーサー王伝説に支えられている。映画のほうには北欧神話も登場する。だが、押井作品をこれまであんなに彩ってきた『聖書』はどこへ行ったのだ?

 もちろん押井作品には『聖書』の明示的・黙示的引用がなければならないなんてだれが決めたわけでもない。そんなものはなくてもちっともかまわない。だから、あくまで「試みに」である。試みに、キリスト教はどこへ行った、と考えてみるとしよう。

 キリスト教的なもの言いが映画『アヴァロン』にはわずかに登場する。アッシュをパーティーに召喚した「司教(ビショップ)」が、自分は使徒の後継者として「司教」なのであって、創造主は別にいるという表現をする。これはケルト神話的またはゲルマン神話的な表現として解釈されないわけではない。げんに作品の内部ではそれはケルト神話的な「九姉妹」に結びつけられている。けれども、この表現自体は、むしろキリスト教を強く想起させる表現である。

 その「司教」は、小説版『アヴァロン』ではその階級(職業)の存在自体が疑問視される存在だ。「魔導師(メイジ)」は「戦士(ファイター)」には装備できない重装備が可能である。また「盗賊(シーフ)」は「戦士」の持たない索敵・警戒能力を有している。だが、「司教」は、指揮能力に優れているというだけで、戦闘に直接に関係するメリットを持たない。

 ところが、映画『アヴァロン』では「司教」の存在が特権的な意味を持つ。レベルの高い「司教」、つまり「高位聖職者(ハイ・ビショップ)」の存在のみが「クラスSA」への扉を開きうる条件を作る。

 どうしてそんな階級が存在するのだ?

 こんな仮説を考えてみてはどうだろう。

 もともと「アヴァロン」の階級には戦士・魔導師・盗賊の三階級しか存在しなかった。ところが、ゲーム「アヴァロン」開発の段階でデバッグなどのために使われたプログラムが、開発者の消し忘れという単純ミスによって(少しまえに騒がれた「99年問題」のように)、あるいは、メンテナンスの便宜のために残された。そのプログラムが、誤ってプレイヤーに階級として認識される余地を作ってしまった。それが司教という四つめの階級として誤って解釈されてしまったのである。ゲーム「アヴァロン」最大のバグ、または、ゲーム「アヴァロン」に残された開発者の悪意が、司教の存在なのだ。

 もしかすると、ヨーロッパ社会のなかでのキリスト教の存在は、そういうものなのかも知れないと私は思う。ケルト神話・ゲルマン神話・スラヴ神話が分布していたヨーロッパに、ローマ帝国が媒介することで入ってきた東方の宗教がキリスト教なのである。それらの神話は、「聖人」をめぐる伝説に姿を変えたり、文学のなかに逃げこんだりして、キリスト教世界と化したヨーロッパに息づきつづけている。カトリックの司教たち・高位聖職者たちが1000年以上にわたって管理し、保守し、ときどき公会議を開いてヴァージョンアップを重ねてきた世界は、そういう異教的要素を多分に含みこんだヨーロッパだったのだ。ちなみにポーランドはそのカトリック圏に属する。

 ゲーム「アヴァロン」に関して、試みに、キリスト教的な創世神話を受け入れてみるとしよう。世界を創ったのは創造者である。しかし、そうだとしても、ゲーム「アヴァロン」の世界は、ケルト的・ゲルマン的神話に覆われている。ところが、その世界から離脱するには、やはりキリスト教的な創世神話にその存在の根拠を見いだす「司教」の存在が不可欠なのだ。

 

 

 ロスト

 

 ゲーム「アヴァロン」は、二つの「現実」をつなぐ媒介だと私は書いた。しかし、二つの「共産主義」という「現実」をつなぐ現在の資本主義市場経済、キリスト教的創世神話と黙示録的な未来をつなぐケルト的・ゲルマン的神話の世界を考えてみると、その「媒介」にこそ私たちは生きているのではないかということに思い至る。いや、押井監督とてもそうだろう。押井監督が生きているのは、スクリーンのこちら側の「現実」やその向こう側の映画の作品世界とでも呼ぶべき「現実」ではなく、それを媒介する「映画」である。アッシュが生きているのも、アッシュの日常の「現実」や「クラスSA」の「現実」というよりは、それを媒介するゲーム「アヴァロン」のなかである。

 「自分の信じる世界」が一つに確定できると信じているスタジオジブリのプロデューサーの目から見ると、押井守はまるでロストしたように見える。そうだ。押井守は、鈴木敏夫さんの信じる映画の世界に帰ってこない「未帰還者」なのだ。しかし、マーフィーを追うアッシュのように押井守を追ってみれば、押井守は二つの不完全な「現実」の中間で絶望的な戦いをつづけていることがわかるはずだ。

 人間は、不完全な「現実」である「この世」と「あの世」にいつも両属しており、その二つの「現実」を媒介する場のなかで、その二つの世界の障壁をクリアする方法を求めて絶望的な戦いをつづけている。それが、一見クリア不能に見えて、じつはクリアできるゲームである一縷の可能性を確信して、だ。そして、そういうあり方こそが人間の現実なのだ。そこが人間の「現実=戦場」(フィールド)なのである。

 『アヴァロン』からそういう現実を読みとろうとするのは、やはり妄想なのだろうか。

 

 

 補足的なことをいくつか

 

 ○『アヴァロン』は、設定として「アヴァロン」という名のゲームを使っているわけだが、ゲーム論映画ではないと思う。少なくとも、「映画論」である以上に「ゲーム論」であるようには私には見えない。たしかに『アヴァロン』のそこここには現在のゲームのシステムへの押井守の批判が仕込まれている。しかし、ゲームにのめりこみすぎて「未帰還」者が続出するのは、あくまで『アヴァロン』の共産主義的世界の「現実」のなかでの話である。その描写は、資本主義的・市場経済的な私たちの「現実」にそのままあてはまるものではないと私は思う。

 ○押井守に撮ってほしい映画について、私の身勝手な願望を書いてみたい。私は『Stray Dog』(公開タイトル『ケルベロス地獄の番犬』)のような映画をまた見てみたいと思う。『Stray Dog』には、外国での映画撮影という点も含めて、『アヴァロン』に引き継がれたものがたくさんある。こんどは、その『Stray Dog』から『アヴァロン』に引き継がれなかった部分を映像にして見せてほしいと妄想したりもするのだ。あるいは、押井監督をこんどは中国の雲南省の山岳地帯あたりに置き去りにするとなんか押井監督にしか撮れない独特の映画を撮ってくれるかも知れないような気もする。

 ともかく『G.R.M.』がんばってください。

 刺し違えても、なんてのはごめんだよ。俺、待ってるからさ。

 

 

2001/02
 

 



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